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随想

2016年5月26日

随想(3)

最近二人の友人があの世に旅立った。

  1. 佐藤信二元衆議院議員は長いお付き合いで、中曾根先生が総理になられる前、佐藤栄作氏と中曽根先生の間を上手に取り持って、やがて自民党主流にも中曽根氏が将来の候補として認知される上で大事な人であった。
    私が最初に選挙をやる時、公認を得るための協力をして下さった方が何人かおられたが、その要の人をご紹介下さったのは佐藤信二氏であった。その頃、氏は山口の衆院の方でなく、参院の全国区に出て(この選挙は金はかかるし、運動は全国で例えばポスター張りをするなど、とてつもない規模の選挙である。) ご苦労されて参議院議員になられた。当時私が公認を取ることは不可能だといわれていたが、ご相談に行くと「君、僕からもよく話しておくがと『竹下副幹事長、また同じ立場の渡海元三郎先生』をご紹介いただいた。」公認問題は政治的には総裁・幹事長の仕事だが、副幹事長達が実務の委員会を作っていた。
    その中で竹下氏はこの実務委員会の議題にして下さった。
    竹下先生を訪ねると、こう言われた「何故東京の候補者は公認を欲しがるのかね」私はこう答えた「東京人は中身も大切だがどこで買ったのかという事を、ウイスキー一本でもこだわるのです。地方の方は実質的だ。東京で無所属で立候補して当選したのは数名で極めて例外なんです。」
    この数日後、選対小委員会は開催され、「派の先輩櫻内先生が顔を真っ赤にして主張して」下さった。後に竹下氏は私に櫻内さんには感謝しなければとこの事をよく私に話された。お陰様で、選挙が始まって4日目公認となった。この選挙は落選したが、40,000票とれた事は次回の公認と当選につながった。
    当選してからの佐藤さんはとっても親切に色々の政界の事情など一年生には判らないことを私に教えて下さった。また通産大臣をやられたので私は(自称商工族)だったので応援をした。参院から信二先生は衆院に移られ、益々お目に掛かる機会を得た。
    6月、12月になるとお呼びが掛かり、資金がいるだろう、これは俺のポケットマネーだから使ってくれと、この面でもとても良くして戴いた。彼はサラリーマンを経験していたから、一般的社会性が豊富で、キチンとした、威張らない議員、穏やかな議員として皆に好かれていた。ご冥福をお祈りいたしたい。
  2. 南原晃さん東大野球部の先輩である。日本銀行という堅い所に務めてらしたので、勉強ができて、態度も良い人と評価されていたに違いない。僕等の目からみて友人でも余程の人でないと日銀に入れないとされていたからです。
    ある日南原さんが神宮球場に女性を一人同伴されて来られた。マネジャーをしていた私に「与謝野君、この方は今大学生、東大の野球の観戦が大好き。これからよく来るから君がすべてご案内役を務めてくれ」南原さんの話ではこの女性に惚れこんで結婚しようと思ったが、相手が高卒だと日銀で良い目でみられない。「私は銀行を辞めさせて大学で勉強させている。私はこれから数年海外に行くので、その間野球に関して君がキチンとバックアップしてくれ。」日銀相変わらず旧いシキタリが残っている社会だなということをつくづく感じた。留学を終えた南原氏、大学を卒業した彼女はめでたくゴールインした。
    私と南原さんの付き合いは勉強会である。大きな声で大胆な意見を言われる。そのうち開銀に移られた。深いお付き合いをしたのは皆で作った『自由貿易協議会』に参加して下さった。この20年続いた勉強会は社会に対してTPP・FTA等をはじめとする国際的な経済の結びつきがいかに重要かということを社会に発信した。
    南原さんのゴルフのフォームは人に勧められない。ひどいスライスであったが、距離は飛んだ。またパターは名手で構えたとたん打つ。良いスコアが出るから悪口も言えない。霞ヶ関カントリークラブと東京クラブは隣同士、どちらのコースも南原氏の大きな声は隣のホールに届く。彼は両方のメンバーでしたから今日はどこでプレーしているのか、友人は判ったそうである。それでもうるさいなどと言われたことのないのは先輩の人望だろう。
    ご冥福をお祈りします。(南原さんは南原繁東大総長のご子息また私の選挙区の住民でした。ご参考までに)

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