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経歴

2015年10月8日

私の歩んで来た道(1)

私が生まれたのは昭和13年(1938年)である。
父は与謝野 秀(しげる)で外交官であった。鉄幹・晶子の次男である。一高・東大・外交官という道を歩んで来た、秀才かつ美男子であった。母は「みち」、通常は道子と自称していた。坂内家というところからお見合いで結婚をした。私の兄弟は、姉の綏子、弟の達(とおる)、妹の文子であるが、もう1人与謝野光家に養女にいった実妹の恭子。5人である。

私が生まれた病院は御茶ノ水にある「三楽病院」というところで、生後間もなく秀が北京に赴任することになり、私も記憶のない世界では小さい頃北京にいたようだ。私の本籍は千代田区の九段で、その頃私の両親は靖国神社の前辺りに住んでいたのだろう。勿論借家である。

中国から帰った両親は荻窪の晶子の家に同居した。私が記憶している最初の出来事は晶子の「葬儀」の日、たくさんの人が集って列を作っている情景である。昭和17年のことである。私は近所の富士幼稚園というところに入れられたが、そこが嫌で登園しても自分で帰って来てしまう。そんなことを繰り返しているうちにもう行かなくても良いということになり、家で1人で遊んでいた。その頃大人の誰かが、「かおる君はキツネの嫁入りが見たいか」というので、その方法を訊ねたところ、まず穴を掘って、枯れ草を入れ、ガラスで蓋をする。天気雨が降る時、そこで嫁入りが見られるというので、来る日も来る日も天気雨を待っていた。またその頃、穴を掘ると水が出てきて井戸になるというので、地面を一生懸命掘っていた覚えがある。蟻の巣のところに座って1日蟻の行動を観察してもいた。何処か変わった子供だったに違いない。後に国会議員になった時、「オマエみたいに恥ずかしがり屋でよく議員が務まるね」と母は本当に予想外なことが起きたという顔をしていた。

昭和17年晶子が亡くなると、家をたたんで秀一家は麻布に借家を求めて引越しをした。家は橋本屋敷四軒の一つで、今私が住んでいるところがそうである。

荻窪の家は今は杉並区の公園になっており、歌碑も建てられていて、杉並区には本当に感謝している。

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