経歴
2015年10月15日
私の歩んで来た道(2)
私達が引越した橋本屋敷は四軒の洋館が建っていて、間にはかなり広い道があった。
前の家にはリスターさんというデンマークの外交官の住む家、その隣はシャピロさんの一家、私達の隣は米日人(二世)の歯医者さん。リスターさんの家には子供はいなかった。シャピロ家は白系ロシア人だと教えられていたが、要はソ連から日本に亡命して来られたユダヤ人一家であった。
引越しをして間もなく二つのことが起きた。
一つは父親が海外勤務になった。
あとで知ったのであるが、父は日独伊の三国同盟には反対で、外務省の中では少数派であり、「枢軸派」が大手を振ってのさばっていた。牛場さんという外交官は最後はアメリカ大使まで務めた人であるが、戦前は「枢軸派」として日本が間違った道を歩むことになった話の片棒を担いだ人である。
その父が、突然ベルリンに行けという特命で、出発することになった。
覚えているのは、父を見送りに行った日のことである。私達子供は母に連れられて父の見送りに行った。それは東京駅、展望車がついている「つばめ」という列車であった。あとで想像したのだが、父はそれから日本海のどこかの港からウラジオストックまで船で渡り、そこからシベリア鉄道でモスクワに行き、またドイツとソ連は戦争していなかった時であるから、そこから陸路ベルリンに入った数週間の旅であったと思う。私が父を誇らしく思うのは、なんといっても少数派になりながら「欧米派」として貫きとおしたことである。ベルリンに行けというのも、外務省の中で異論をいうものはとばせという人事だったと思う。
もう一つは父の居なくなった東京をはなれて、「疎開」することになった。
行き先は沓掛(今の中軽井沢)の千ヶ滝という場所にあった親戚の別荘を借りた。母の実家のものである。
なぜ疎開したのかといえば、東京もいずれ攻撃の対象になり、空襲など始まれば、危険だということと、食糧事情も地方の方が良いのだろうという判断があったと思う。戦争のなんたるかも知れない私にとって、千ヶ滝は夢のような場所であった。豊な自然の中で一人で遊び回っていた。その頃近所にピアノの練習に行かされたが、どうも長続きしなかったようである。今の人は信じられないかもしれないが、バスはガソリンで走っていたわけではない。木炭車というのがあって、木材を焚いてガスを発生させ、それでエンジンを動かしていた。そんなに大きい馬力はでないので、星野温泉のところでお客は皆降りて、バスがやっとのことで坂を上がるのに皆ついて歩いていた。私は何度もそういう場面にあった。
「石油一滴血の一滴」などといわれていた恐ろしい時代である。
私は家でお風呂を沸かすことを母に命じられていた。火がなかなかつかない。最初は自分で集めてきた「からまつの枯枝」、これがすぐ燃えた。しかしマッチは粗悪品ばかりで、風呂沸かしといっても、小学校にまだ入っていない自分にはかなりの難しい労働であった。
野山をかけめぐり、花や実やキノコと接したあの時代に帰りたいと今想っている。
私の第一の故里である。