経歴
2015年10月29日
私の歩んで来た道(3)
千ヶ滝での生活は今考えると天国であった。俗世の悩みや戦争のこともなにひとつ判っていない子供にとって、自然の中で思いのまま行動できるというのは、今考えるとこんな贅沢なことはなかったと思う。
母は厳しかったが、自分がそこいらに勝手に出かけてゆくことに関しては、怒られたことは一度もない。
人様の別荘は人気のないところが多く、囲いも塀もなかったから思いのまま、まさに野山をかけめぐり、自分の冒険心を満足させていた。
人の別荘の庭に「ゆり」が咲いているのを発見、こんな綺麗なものがあると、しばらく見ていたのを思い出す。
歩いているうちに、水たまりのようなところに「あやめ」が群生しているのを見て、美しいと思ったが、それを折って家に持ち帰るようなことはしなかった。
「リンドウ」「つくしんぼう」「笹の群生」、秋の七草(特になでしこ)が好きでした。(ききょうも好きな花でした)
我が家にはめずらしい木は無かった。百日紅・白樺の木が一本ずつ、つつじの木が数本あった。
野山には口にすることの出来る実や果実があった。道端には野イチゴがあって、よく食べた。ぐいの実もおいしかった。つつじの花も開花したあと、花をとって、口で吸うと甘くおいしい汁が出てきた。
ある時人に連れられて山歩きをした時、野生のあけびを発見、十分熟れたものを食べた時は、こんな美味しいものがあるんだと感激した。(これは秘密の場所にした)
東京から来た人が、青いセロファンに包んだ「ほしバナナ」というものを下さったが、味については全く覚えていない。
「リコボー」(当時私はそう呼んでいた)というキノコは今で言うとなめこの親玉のようなもので、容易には見つけられなかった。美味しいもので見つけた時は本当にうれしくて、家に持ち帰った。食べられるキノコと毒キノコはどこで見分けるのか、人はキノコの茎をさいて、綺麗にさけたものは大丈夫と教えてくれたが、本当かどうかは分からない。
我が家の食べ物は何だったのか。
白米は贅沢品で、母は親戚の誰かの命日の日だけ、白米を食べさせてくれた。あとは、じゃがいもやさつまいもが混ぜられていて、増量の役割を果たしていた。「スイトン」などという言葉は今は通用しないだろうが、材料は少なく、お腹はいっぱいにするという、困った時の発明である。
さつまいもは常食であった。かぼちゃも良い栄養源であった。じゃがいもは母が庭の一部を開墾して種いもを植えつけた。それを収穫する時の喜びは忘れられない。
ウドは自生していて、それは掘り出して母のところに持ち帰った。苦いので私は嫌いだったが、母は好んでいた。栗は時々野生のものを発見、イガから取り出した時はこれも嬉しかった。
くるみの木は発見したが、実の処理の仕方が全く判らなかったので一度も食べたことはない。野生の柿の木は一度も見つけたことはない。
馬が荷車をひいていた。力持ちだなと思ったし、馬は荷車をひきながら「糞」を落としていった。これは肥料として、誰かが回収していた。
「りんご」や「なし」は母が買い出しに行って、手に入れていた。行く先は信越線の「篠ノ井」というところで、私も付いて行ったことがある。
農家の人に頼んで分けてもらう。それが買出しである。
農家の庭で「まゆ」をあたため、糸を作る作業をじっと見学した。母はなけなしのお金と着物などでこれらを手に入れていた。皮を一枚ずつとっていく「竹の子生活」という言葉、それはその当時から私は知っていた。
ある時「篠ノ井」の帰り、母はお金がなくなったのであろう、沓掛まで無賃乗車を試みたが、下車駅で交番に突き出され、若い巡査さんに母が懸命に謝っている姿を覚えている。
母は美人だったし、時が時だけにお説教だけで放免された。とても悲しかったのを覚えている。
私の家の隣は肉屋さん。今考えると「おくさん」と「おめかけさん」が同居していたのではないかと思う。今でいうDVは当たり前で真剣にケンカしていた。
そこの庭で、牛を解体しようとしてうまく殺せず、牛が我が家まで逃げてきた事件があった。その後うまく解体でき、私は現場まで見に行ったが、牛はこんなにたくさんの汚物を体の中に持っているのだと感心したことがある。
「沓掛」駅の近くの農家とも母は仲良くなっていて、私も時々母に連れられて、農家に遊びに行った。
子供三人を食べさせる。父親はドイツにいて不在。
その中で母の奮闘ぶりは、今この平和の時代では想像を超えるものであったと思う。
農家と仲良くなる、代価を払う、その苦労は今のような豊な時代では考えられないことである。
私は母に感謝している。