経歴
2016年1月5日
私の歩んで来た道(11)
中学時代の私は映画に凝っていた。
姉の読んでいる映画雑誌を見て、観たい映画を探したが、ロードショウや封切りにはお金が無くてとても手を出せなかった。その頃は場末の映画館では2本立て、3本立てが当たり前で、少し古くなった映画を安い値段で上映していた。
もう今は無いが、麻布十番に映画館が2軒できた。一方には洋画、もう一方は邦画を上映していた。多分入場料は40円位だったと思う。
日曜日になるとお金を握りしめ自転車に乗って、麻布十番へ出かけた。
私の目標は年間100本の映画を観るということで、娯楽がなかった時代、映画は最高の娯楽であった。1日3本も観るとストーリーが、ゴチャゴチャになって本当に意地で観ている様なものであったと思う。
最高は朝10時から2軒を回り計5本の作品を見ることもあった。
「アンナカレニ―ナ」と「ひばりの狸御殿」を一緒に観るわけだから大変であったが、努力の甲斐あって、中学1年で110本、2年でも同じ位の映画を観た。名画という名画は全部観た様な気がする。
もうひとつ熱心にやっていたのは、文学書を読むことであった。
きっかけは、角川書店が「昭和文学全集」というものを出すことになり、私のクラスに角川君という書店の一族の子がいて、その友達から月に一冊定価で分けてもらった。
その頃読書といってもストーリーを追うだけであって、名作が持っている「繊細」な場面はよく理解していなかったと思う。
中学の時、文学に親しんだことが、今考えれば大変な資産であった。
私のクラスには、堤君という人がいて、隣の席であった。よく彼の家に遊びに行った。綺麗なお母さんがいて、存分に遊ばせてくれた。
鉛筆のカバーに油を詰め、火で温めて発射する遊びは何回もやった。
その家には柔道専用の建屋があって、兄弟で練習をしていたらしい。ある日堤君が「弓が欲しいのだがどこか知らないか」と言う。そういえば、国電の窓から市ヶ谷付近に「弓」という看板を見たことがあり、そのことを話すと一緒に行こうと言う。一緒に行って、彼は「弓」を手にいれた。
その時の縁で、私が選挙をやるようになって、彼は本当に自分のことのように、応援をしてくれた。
当時豊島園に遊びに行こうと誘われた。西武鉄道は無料だし、豊島園の乗り物は全部無料。こんな贅沢をしたことはない。
ウオーターシュートというのがあって、私は気に入った。高いところから船をレールに沿って落とす。着水した時に船頭さんはジャンプして、元の位置に着地する。名人芸で本当に好きだった。
その頃「ホンダカブ」という自転車に小型のエンジンを付けて走る装置が売り出され、街をすいすいと走っていた。その頃の自転車はギヤもなく、相当の体力がないと坂道は上がれなかった。これがホンダ自動車の原点ではないかと思う。
その頃起きた事件で思い出すのは警官の妻が夫を絞め殺し、バラバラにして「隅田川」に捨てた事件とか、中華料理店で一家が殺される事件とか、今は殺人事件はあまり大きく取り扱われないが、その当時は話題一色に世の中はなっていた。