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経歴

2016年1月5日

私の歩んで来た道(12)

母があとでいつも笑っていたのは、カイロ到着の私の第一声が「ここにはバナナとアイスクリームがある」と訊ねたことである。その当時日本ではバナナは高値の花でめったに口にすることはできないものであった。今でこそ子供達はバナナを見ても感激するということはないが、貧しかった頃の日本はそんな状況だった。

父母が住んでいた大使公邸はカイロの中心のgardencityという場所にあり、ナイル河の岸辺にあった。
ナイル河は上流から肥沃な土を運んで来る。洪水期にはそれが田畑をうるおすというエジプト文明を支えた河である。
大使公邸は広く、召使いが3人もいた。そこでナイフやフォークを使う三食をとっていた。日本の食材はなく、現地のものばかりであった。果物は豊富でメロン・オレンジ・マンゴー・バナナ・なつめやしの実など多彩であった。

父母の方針でベルギーに一緒に行ってフランス語教育を受けた弟の達と妹の文子はフランス系の学校へ。私と姉の綏子はカイロの郊外ヘリオポリスにある英国系の学校に行くことになった。

日本と違って一学期は9月から始まるので、それまでの間、英語の特訓を受けさせられた。先生はミス・ブラックという人で、ミスといっても80歳に近い、いいおばさんだった。それと同時に母は私にピアノを習えという。
母はこう言った「馨も将来女の人にふられることがある。その時はヤケ酒など飲まないで、ピアノを弾いて自分を慰めなさい」こんな理由でピアノを始めた。バイエル、ビュクミュラーなどをこなし、短い間に「エリーゼのために」まで到達した。

カイロではびっくりすることが多かった。中心部というのに家の前の道路を羊飼いが50頭いや100頭位の群れを連れてどこかに行くところ。前の川で人が溺れる。
ようやく遺体が引き上げられると親族一同本当に大きな泣き声で死を悲しむ。後で人に教えてもらったのだけれども、「泣き女」というものがあって、人の死を悲しむために大きな声で悲しみを表す。これがあたり前で職業なのかもしれない。
エジプトは英国とフランスの影響は強く残っていた。私がカイロに到着するしばらく前にトルコ系の王様ファルークは軍部のクーデターによって倒された。ナギブ将軍が後の政権であるが、実権は部下のナッセルなどが持っていたのではないか。

映画館で洋画はよく観た。映画の前に革命をたたえるニュース映画が流されていた。
フランスはスエズ運河の建設をやり、その当時スエズ運河の利権を握っていた。
英国は中近東支配の一環としてエジプトに強い力を持っていた。
ナギブ、ナッセル政権は英・仏支配を脱することに腐心していたのだと思う。
父が日本に帰国してエジプト事情を天皇に上奏した時、父はびっくりしたと言っていた。それは天皇があまりにもエジプトファルク王が倒れた事情を知っておられたからだ。エジプトは基本的には豊かな国だが、イスラエルに対抗する為に多くの国の富が費消されていた。

私は9月からヘリオポリスにある「イングリッシュ・スクールヘリオポリス」という学校に入れられた。通学ではなく、寄宿舎に放り込まれたのである。英語が満足にできない私にとって辛い日々のはじまりだった。ここは男女共学であったが、授業は全部英語であった。
中近東の中では、その当時有名な学校で周辺の国を含めて20ヶ国から生徒が来ていた。近くの国の裕福な層の子弟が留学先としていたのだ。

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