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経歴

2016年1月14日

私の歩んで来た道(17)

3年間の寮生活をトータルとして振りかえって見ると

  1. まだ戦争が終わって10年も経っていない時点でしたから他人がみる日本というのは「戦いに敗れた国」ということで、日本に対する見方は今と随分違っていたと思います。
    少年時代でしたけれども、自分の国日本が随分低くみられていることに対して、日本を世界の中で、良い国、強い国として認められるようにしなければならないと感じるようになりました。
    多分20ヶ国からの学生達に囲まれて生活していましたから、これは自然に芽ばえた感情であり、私の政治家としての原点だったと思います。
  2. 英語で勉強すると例えば数学などは与えられた条件、その中で答えを見つけ出すということが、日本語よりはるかに論理的に進められていました。ですから日本語も素晴らしい言語だと思いますが、論理立てて物事を論じることにおいては英語は素晴らしいものを持っていると思いました。またユークリッド「幾何学」などは、一歩ずつ進んでいく素晴らしい体系であると思いました。
  3. 学校、寮生活を通じて「規律」というものが大事であるということを学んだように思います。規則をキチンと守って行動する、これは特に団体生活の上では欠かせないことだと思います。
  4. 20ヶ国からの人がいましたから、宗教もキリスト教、モハメット教、ユダヤ教など色々なものがありましたが、宗教的なことが会話になることは一切ありませんでした。
    例えばその当時のカイロでは昔から住んでいたユダヤ人がおり、その人達を差別視するということは一切聞いたことがありません。
    またエジプトがユダヤ人の国イスラエルと戦争したからといって、カイロにいるユダヤ人が迫害を受けたという話も聞いたことがありません。
  5. それから英国人は英国人としてのある種の「おきて」のようなものがあって、例えば「告げ口」は悪徳とされていたように、日本にも武士道があったように、英国人にも多分ゼントルマン道のようなものがあるのではないかと思います。
  6. その当時のエジプトはイスラエル相手に色々軍事的な備えが必要で、国民は貧しかったのですが、この国は基本的には豊かな国であったと思います。
  7. 英国や仏国は19世紀、20世紀にかけて世界中で植民地経営をやってきましたが、エジプトにも英仏の影響は色濃く残っていたと思います。
  8. 例えばフランス人がスエズ運河を作ったのであり、その当時は運河の権益はエジプト人の手にはなく、フランス人が運河の経営をやっていました。
  9. 今でこそ「アラブの春」などという言葉がありますが、私がカイロにいた時は軍部によって王制が倒された直後でした。ですから時の政府は旧植民地勢力と対決するという姿勢を当たり前のようにとっていました。

【注釈】
日本も占領されましたが、植民地にされたわけではない。
今の中近東は植民地時代のことを色濃く反映していると思います。日本は中近東の問題などに迂闊に手を出さない方が良い。
何しろ3,000年近く争ってきた地域ですから、日本人が判ろうとしても判らないことが沢山あるのではないかと思います。

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