経歴
2016年1月18日
私の歩んで来た道(19)
父母のいるスペインマドリッドに着いたのは、1956年のたしか7月のはじめであった。
風習の違いというものには本当に驚いた。何しろ夕食というのは午後10時過ぎてからであり、それからゆっくりと夕食はすすむ。社会の生産性などという事はいくらいっても社会慣習がこうなら、なかなかうまくいかない。
そういえば「エジプト」でも仕事をせっつくと「ボクラ・ボクラ」と返答される。その意味は「明日・明日」と先延ばしを言っているだけのことで、あくせくスケジュール通りに働くのは日本人位しかいないかもしれない。
スペインはイスラム圏に入っていた時代が長く、イスラム文化の名残りが国中に残っている。地名もそうだし、例えば壁の図柄も「偶像崇拝」は駄目というイスラムの教えから、色々な「もんよう」が残っている。
今のサウジで生まれたイスラム教は、政治勢力としてもあっという間に北アフリカに広まり、またそう時間がかからないうちにジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に上陸。そしてピレネー山脈を越えて今のフランスにまで進行したのであるから。ヨーロッパは徹底的に戦った歴史がある。
気のせいかしれないが、女性は全部美人に見えた。その話を人にしたら、アラブの血が混じって、混血の中から美人が生まれたという。
マドリッドから小一時間のところにトレドという街があり、ここは画家の「グレコ」が数多くの作品を残したところで、私もゆっくりと見物させてもらった。イタリ―で写実派の極致を見たばかりだったので「グレコ」の絵は少し異様に見えた。
夏になると政府はマドリッドを離れ、フランスとの国境の町「サン・セバスチャン」に移動する。大使館もその街に一時的に移動する。すべて優雅なのである。この地方は「バスク」という地方で独立志向が強い。しかしバスクの人は日本人と祖先は一緒だ、言葉も共通の単語があるといって、極めて親日的である。
今から数ケ月前、やはりスペインの一地方で独立を容認する住民投票があったが、バスクも長い間マドリッドの中央政府との対立が続いている。サン・セバスチャンは国境の町、車で行けばあっという間にフランスに行ける。
隣のフランスの町はたしか「バイヨン」という名前で、父はここに行けばカジノがあるというので、よく国境を越えて遊びに行っていた。「バイヨネット」とは銃砲の先に付ける「銃剣」のことであるが、このバイヨンが発祥地である。
スペインのマドリッドの美術館にはゴヤの絵をはじめ重要な作品が数多くあって、さすがは世界を支配した国だけのことはあると思う。世界でスペイン語を使っている地域は多いし、アメリカでは「ヒスパニック」人口は選挙の時の重要な要素となっている。
父母に感謝しているのは、この「サン・セバスチャン」から陸路パリを目指す旅行計画してくれたことです。その当時両親子供四人の大旅行であり、歴史で名の残る町を通ってパリに向かう今考えても豪勢な旅であった。
家族一同でというのは、やはり人生の中で貴重な思い出、財産となってくる。