経歴
2016年1月18日
私の歩んで来た道(20)
パリに着いた我が一家はパリの市内の見物で大満足していた。
弟の達(トオル)と妹の文子は、フランス語はよく出来たので、何でも良く判っていたのだと思う。
父親はお金持ちでないのに、一家をパリまで連れて来てくれた。今思うと父親に感謝の気持ちでいっぱいである。
パリは父親が外務省に入って最初に赴任した場所で、おそらくメランコリックにパリを見ていただろうと思う。
パリの旅を最後に一家はバラバラになる。両親と文子はマドリッドへ、弟は東京に、姉はスイスの学校へ。私はイギリスのロンドンに渡った。
イギリスに行けば良い高校に入れると思っていたが、留学コンサルタントが世話してくれたのだが、予備校的なものしか入れないという。そこに行って残りのオックスフォード大学の入学資格を取る他はないと言われ、予備校を紹介してもらった。
そこでびっくりしたのは、下宿先がない。反日の気運が強くて日本人の下宿人を受け入れてくれる所はない。
ただ一つハイドパークの近くにLaucaster Gateという地下鉄の駅があるが、その近くに親日家の未亡人がいて、日本人を受け入れてくれるという。大使館に世話になったが、その当時大使館の把握している日本人のロンドン滞在は54人だという。(今は数万人である)
その当時戦争の記憶は生々しく反日感情はきわめて強かった。
毎週1回下宿代を払う。朝だけ地下でおばさんが目玉焼きを作ってくれる。
昼間は予備校のようなところに通って勉強をしていたが、毎月日本人の下宿人が変わる。ある時新しい人が来た。「君は何をしているのか」「おじさんは何をしているのか」と会話が弾んだ。その人は電話の交換器の研究をしていると言われた。(この方は後の電電公社前田副総裁である)
昼はいつも安いハンバーグを食べていた。ろくな食事にはありつけなかったが、時々大使館の方が親切に夕食に招いて下さった。
街で偶然カイロ時代の友人(ギリシャ人)に会った。彼は秀才でもうその当時エレクトロニックスという言葉を使っていた。彼との交流は今はないが、古い友人と会うと心の支えになる。いろいろなことを教えてもらった。
その頃ロンドンでクラシックの演奏会のことを知った。ロイヤル、アルバートホール等である。
お金がないのでいつも最後部の立見席で聴いたが、随分何回も通った。今でも自慢に思うのは、A・ロビンスタインとアイサックスターンの実物を見て聴いたことである。今でもその時のプログラムは宝物のように取ってある。
ロンドン滞在中に好きになった曲では、ブラームスのバイオリン協奏曲。今でもこの曲はよく聴いている。オペラの前奏曲を聴いたら、日本の小学校の歌に採用されていて、懐かしい曲を聴いたと感激をした。
貧しい下宿生活だったけれども、たまにはクラシックを聴きに行くという贅沢もしていたのだ。
その当時ハンガリーで動乱があり、ナッセルがスエズ運河を国有化したことで、英・仏イスラエルとエジプトが戦争になった。ナッセルの夢はナイル川の上流にアスワンダムを建設することだったが、米国が融資を断り、困ったナッセルはスエズ運河を国有にした。大国の米。ソが止めに入ってこの戦争は比較的短期間で終わった。
イーデンとかマクミランという政治家が活躍していた時代である。