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経歴

2016年1月21日

私の歩んで来た道(22)

麻布高校3年生に進学した私、本来は受験勉強に集中しなければならないのに、世の中の興味あることに惹かれ、勉強の方には今ひとつ集中出来なかった。
親に頼んで自転車は簡単に手に入れることができたので、今思うと日本の経済、父親の収入も昔より一段と良くなっていたに違いない。

その頃、流行り始めたのは、石原裕次郎である。
「俺は待ってるぜ」という彼の歌をすっかり好きになり、それ以降裕次郎の歌はほぼ全部覚えるまでになったし、また映画も封切りになると直ぐ見に行った。
「海の男」という歌、映画の主題曲であったが、甲板の上でウクレレを弾きながら歌うシーンは今でも忘れられない。
映画は本当にたくさん見た。あの麻布十番には三番目の映画館、十番日活もできた。その頃の麻布十番には、寄席もあって洒落た町であったと思う。

もう一つは、ロックンロールが日本にも上陸してきたこと。
またポール・アンカ、パット・ブーンなどが流行っていた。中でも「ダイアナ」は今でもカラオケで歌われるポール・アンカの名曲であると思う。パット・ブーンの方は「砂に書いたラブレター」など清純なイメージを歌っていた。

もう一つ私が凝ったのはパチンコである。
麻布十番にもあったし、自転車で神田まで行って、「人生劇場」という店でよくやっていた。勉強以外のことに興味が向くのは本当は困ったことなのであるが、受験に備えた勉強もそこそこやっていたが、国語などは中々追いつかなかった。
それでも東大を受験しようと心の中で決めていて、友達にも相談していた。
理科系に進みたいと思ったが、友人達からは、お前には無理だ、精一杯やって、文学部ではないかと言われ、私は自分の志と違う文科一類(法学部・経済学部)にしようかと考えていた。なにしろ科目が多い。
数学がⅠ・Ⅱ、国語、英語、理科2科目、人文2科目という8科目を同時に学ぶというのは大変だった。それでも文科一類に願書を出した。

不勉強のせいで失敗。東大から来た通知ではBクラスの失敗というから程度は悪かったのだと思う。
受験に失敗した私は「予備校」に行くことにした。
駿台予備校が良いというので、そこの試験を受けた。自信満々で受けたが、結果は入学させてもらえなかった。
そこに「救いの神」が現れた。
私の叔父で放送局で駿台のコマーシャルを担当していた。その叔父がウイスキーを一瓶持っておいで、私が事情をよく話して頼むからと。
駿台はその当時「御茶ノ水」「四谷」と2つあって、出来る順番に、最初の1,000人は「御茶ノ水」次の1,000人が「四谷」と厳しい序列があった。
私の学生番号963、四谷の一番下の教室に通うことになった。私の下に37人いるなと、苦笑していた。

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