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経歴

2016年1月25日

私の歩んで来た道(24)

いよいよ予備校での1年間の成果が試される日が来た。
私は東大文一のみを受験するつもり、いわば背水の陣をとった。

麻布の元担任の先生からは、複数の大学を受験した方が良いと強く言われたが、私は緊張感を高める為にも1校だけに絞った。
一次試験は難なくパスした。二次試験が終了すると模範解答が出てくる。これを参考にしながら自分で採点してみた。理科二科目は60点満点で夫々58点がとれた。苦手の国語もまあまあだ。英語は当然良くできた。数学も点がとれたと思った。
自分自身の採点では合格ラインまでいったと思ったが、発表までは不安の毎日であった。

発表の日、駒場まで結果を見に行った。
受験番号で発表されている看板の中に、自分の番号を見付けた時の喜びは形容できない程大きなもので、本当に地に足がつかない、浮揚感に包まれた。私のことをいつも心配してくれた姉の綏子も喜んでくれた。

私はマドリッドに電報を打った。
事前の約束通り合格したら「シャンパン」という簡単な内容であった。合格したら200ドルということになっていた。
嬉しかった、とにかく嬉しかった。
文字通り努力が実を結んだのだ。皆から良かったね、おめでとうと言われ、さらに嬉しさが実感できた。
その当時入学金は1,000円、月の授業料が900円。一般社会の初任給が15,000円以下であったから、大学としては安かったのだと思う。
大学に期待に胸を膨らませて行ったが、自分の期待には全く反した現実があった。
私はフランス語のクラスを選択した。その当時のクラスメイトとは今でも付き合いがある。何が不満だったかといえば、教養課程は高校授業の焼き直しみたいで、ちっとも楽しくなかった。予備校で授業を受けた先生が、大学でも登場したのはびっくりした。

一ヶ月程して大学がつまらなくなってしまった。
手元に200ドルある。日本円で1ドル360円、全部で72,000円の大金だ。
私は岩波文庫を200冊位いっぺんに買って、ベットの脇に積んで一冊ずつ読んでいった。名作の文学書は全部といっていい程読めたと思う。残念ながらすごいスピードで読んだので、中身は覚えていない。しかしこの読書はどっかで私の財産になっていると思う。
一学期の終わりに期末の試験があった。
試験が終わったら相変わらず本を読んでいた。夏休み明けにクラスに行くと友人達から「英語の試験で素晴らしいでき」だったので、教授が感心してオックスフォード辞書を下さった。先生は毎回のようにお前の名前を呼ぶが、出て来ないので仕方がないので友人が代わりに預かってくれていた。

クラスの仲間の一人に内田君という人がいて、弱くて有名な東大野球部に入っていた。
彼がお前がそんなにブラブラしているのであれば、野球部に入ったらどうかと誘われた。自分は野球はソフトボール位しかやったことはない、そんな事は気にしなくともよい、自分が紹介すると言われ、野球部に入部することにした。
東大の野球部はその当時は岡村投手という下手投げの名投手を擁していて、1シーズン2試合位は勝っていた。私も練習に参加した。
野球部員は野球優先の生活。本郷の東片町に寮を持っており、農学部には専用の野球場も持っていた。
但し寮には定員があって、レギュラークラスしか入れなかった。後は通いの部員である。私も通いの部員であったが、汗をかくと本当にあとはさわやかになるという事を実感する毎日であった。
1年生から誰かマネジャーになる人がいないといけない。みんなから断られ、私の所におはちが回ってきた。

その当時一般学生の間では、「警職法の改正」が政治運動の対象であり、これが60年安保の前哨戦であった。

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