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経歴

2016年2月25日

私の歩んで来た道(27)

大学の授業は夫々その分野で超一流の先生達であった。民法は加藤一郎先生、商法は石井照久先生・・・・。もう少し真面目に先生方の講義を聞くべきであったと今思う。
もったいない事をした。刑法は団藤先生。この課目はよく勉強した。なかなか追いつけないので、友人の中平幸典君に合宿所に来てもらって2時間程教えてもらった。それで判ったことにした。中平君はその後大蔵省に入った秀才である。
私はどちらかというと刑事法の分野が好きであった。(衆議院議員としての仕事も法務委員会が多かった)
とにかく雑用だらけで勉強をする暇はなかったし、暇が有れば安い酒場に通ったり、麻雀をしたり、パチンコをしたりするものであるから、本分の学業の方は怠りがちになった。野球部で麻雀が流行りすぎて監督から禁止令が出されたこともある。
私は上原、平野両後輩ととてもうまが合い、卒業後も付き合いを続けるほど友情は深かった。よく3人で赤門前の喫茶店等に行ってあらゆることを議論した。よき青春時代であった。

経済成長は続き、世の中は日本の将来に明るい展望を持てた時代である。マネジャーの仕事の1つは、部員の就職である。部員夫々ここに入社したいという希望があって、それらの会社に野球部OBがいるかどうか。おられればその先輩に挨拶に行って、指導を仰ぐ。私が四年生の時、仲間は10人程だが、全員が自分の望む会社に行くことが出来た。
自分のことでは迷っていた。昭和37年というのは日本の経済は将来の発展が確実視されていたから、よほどの不良でない限り就職は簡単に出来た。簡単に出来るとなると迷う。

ある時母にどこに行けばよいのか迷っているという話をしたところ、誰かの意見を聞いたらどうかと言う。
その頃「大正会」という会があって母も参加していた。母が言うにはそこに中曽根さんという将来総理大臣になるような人なので、その方の話を一度伺ったらどうかと言われた。
母の紹介で中曽根先生をお訪ねした。中曽根先生の事務所は赤坂にあって、そこで先生の御意見を伺った。
私が選択肢が多いので、迷っていますという話をすると先生は「これから原子力の時代がくる。そういう新しい分野を考えたらどうだろう」と言われた。

そこで先生に日本原子力発電(株)を紹介して頂き、その会社に入社することにした。
母は電力会社と聞いて非常に喜んだ。というのは母の父坂内虎次は電力の人で、技術分野で活躍し、例えば九州電力の前身である熊川電気は虎次の作った会社である。(その間私は三菱商事を受けてみた)
試験官に君は卒業までに、優を1つとれるかと言う。若気の至りでそれはやってみないと判らないなどと生意気な答えをしてしまった。しばらくして父の友人で商事の重役をしている方から電話がありとにかく優は1つとれると言ってくれたら、採用する。今考えるととても親切なお話であったが、若気の至りで生意気な人間でしかなかった。(自分はその親切が理解できなかった)

この一件は私の人生の道筋を大きく変えてしまった。
そこで三菱商事に入っていれば、自分の人生は全く違ったものになっていただろう。
ちょっとした事が人の運命に重大な関わりがあるのだ。

【付記】
自分の長男が三菱商事に入った時はひどく嬉しかった。

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