経歴
2016年3月10日
私の歩んで来た道(30)
会社員になって1年目でもう嫌になるとは誠に贅沢なことである。少し誇大妄想的だが、カレーライス屋をやっていればそれも楽しい人生ではなかったかと思う。
1年目の時、人事異動があって、調査部というところに配属された。何を調査したら良いのか、上司の指導もなかったのですが、自分で勝手にテーマを決めて勉強し、調査報告を書いていたのです。
会社は東海村の発電所も無事動き始め、また次の原子炉の建設も視野に入ってきて、社内は活気が出て来たのです。
英国炉の次は米国のBWR又はPWRいずれかになっていたのですが、親会社の意向もあってBWRが有力だと考えられていました。
私が勉強していたのは米国、英国、フランスの原子力事情でした。資料もあまりなく、海外の貴重な文献を手にいれると必死で読んだ覚えがあります。そのうち海外の事情については、会社の中でもよく知っている1人になることができました。また海外のウラン鉱山についてもよく調査をしており、その当時電力会社ではそんなことを研究する人はいなかった時代です。また原子力発電所の発電コストの計算も米国のものまねでしたが、いつのまにか専門家になっていました。
その頃野球部の1年後輩の上原隆君が日本長期信用銀行に入行。そのビルは大手町ビルの反対側にあり、再び旧交をあたためることになりました。飲みに行くのはいつもトリスバーかサントリーバーで2,000円もあれば楽しく飲めた時代です。
ある時大蔵省に入った中平さん、上原君と3人で飲む機会があり、私が「中平は次官、上原は頭取、私は大臣」ということにしようと大笑いしたことがあります。
しかしある時、飲んでばかりいてはしょうがないという話になり、上原君が長唄を習いに行きましょうと提案、私達2人は月に2回程商工会議所の3階の日本間で吉住小愛先生という方の門下生になったのです。先生から言われたのは、貴方方2人が入って下さったので生徒の平均年齢が随分下がりましたよということと、長唄をやる前に三味線を習う事が大事ですという、この2つのことです。
与謝野・上原2人で本気で三味線を習い、「松のみどり」を始めた頃、2人とも海外出張が多くなり、レッスンが続けられなくなったのです。
会社はいよいよ次の原子炉の建設に向かって皆が使命感にもえていた時期です。
会社は手回しよく、福井県の敦賀市に大きなサイトを確保してあったので、原電の二号炉は福井ということになっていました。いよいよ炉型選択の最終段階になって、別の技術系の社員と2人でホテルに籠ってGEとWHの両提案をコスト面から比較する仕事をやらされました。今井さんからは、君達がいくら計算してもGEのBWRに決まっているんだよと言われた時は少しがっかりしましたが、両社の提案はコストの面ではそんなに決定的な差はありませんでした。
日本の電力の歴史は東電は三井、日立、東芝、GE.関電は三菱重工、電機、WHと決まっていたのです。三菱とWHの繋がりは深く、戦争中にWHの特許を使ったものは全部特許料をとっておいて、戦後それを支払ったという美談があります。(従って東芝がWHに手を出したのは仁義に反しているのです)
会社員2年目もまあまあ無事に終わりましたが、時々は安い酒の飲み過ぎで、出勤の途中地下鉄の中で気持ちが悪くなり、日比谷で降りて皇居の前のベンチで暫く休んでいたこともあります。
3年目は経理部の契約課というところに配属になりました。相変わらず一番の下っ端でしたが、穐山次長という方に目をかけられ、本格的な仕事をするようになりました。