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経歴

2016年3月31日

私の歩んで来た道(32)

ニューヨークに着いた我々は宿泊先を紹介してもらった。
何しろ私の出張費が1日21ドルであったので、高いホテルは無理。結局は三井物産の紹介のSeymour Hotelという所に落ち着いた。その最大の理由は朝食が付いて1日7ドルと極めて安かったからである。

昼間は「コンサルタント会社」に行って、輸銀に提出する書類を作る作業であった。
この会社は「エバスコ・エンジニアリング」という会社で、米国内の電力会社の面倒をみていた。米国は国土が広く電力会社も公営・民営乱立しており、技術的・経営的な面で「エバスコ」等の知見が必要だったのである。日本の電力会社のように技術や経営が独自で可能なわけではなく、こういうエンジニアリング会社の存在が必要であったのだ。「エバスコ社」は貿易センタービルの近くに自分の高層ビルを所有していた。
昼ご飯は重役・幹部の専用食堂でとった。びっくりしたのはそのメニューである。品ごとにカロリーが書いてあるではないか。(今は日本のファミリーレストランでは当たり前であるが)この事に驚いた。それと同時にニューヨーク港に入出港する船の名前もメニューには載っていた。高層階からは自由の女神や港が良く見えた。夜になると三井物産の人が色々案内をして下さる。一緒に出張している穐山上司は大の日本料理党。折角ニューヨークまで来たのに、毎晩和食を食べていた。昭和40年頃の話だが、敗戦国日本の国民はN,Y,に乗り込んで商売に励んでいたのであるから、そのたくましさは凄いものである。和食の店も沢山あって、その中で「レストラン日本」という所の「お寿司」はとても美味しく、伺えばマグロは大西洋の本マグロ、食材はほとんど米国内で調達できるとのことであった。余談であるがそこの「お寿司」の部門にいた方が、数寄屋橋で「すし処日本」という店を出した。それからこの店は50年も続いていて、今でも「お寿司」といえばこの店に行く。

私は米国の料理にひどく偏見を持っていた。それは父親のせいである。父親は自分の外交官生活をパリで始めたので、ヨ―ロッパに対する限りなき憧れと尊敬心を持っていた。父親はいつも「ジャズは音楽ではない、料理はまずい、歴史がない」等ヨーロッパ優位をいつも説いていた。ヤルタ会談でのルーズベルトのもの言い等に歴史や文明のない国とも言っていた。
しかし米国に来て料理を食べてみると美味しい。「生カキ」は何種類もあるし、メインロブスターは美味しいし、ステーキは本当に大きく美味しかった。あとショックを受けたのは「Credit Card」である。今時はそんなものは当たり前であるが、日本人はそんなものの存在を知っている人は少なかった。
週5日働いて、Week Endは何か楽しい事をやろうと思っていたが、穐山さんは大のゴルフ好き、必ず土・日2日間ゴルフに付き合わされ、ゴルフがとても嫌いになった。
いつも思っていた。「こんな大きな国、体格の良い人達、お金のいっぱいある国、技術の進んでいる国。こんなところとよく戦争などしたものだ。無知だったのか、追いつめられたかは知らないが、負けるに決まっている戦争をやったのはばかげていた。」
今は日本が米国のTB、などを大量に買っている時代だが、その当時の実力の差は言葉では言い尽くせないと思った。

書類はどんどん整った。いよいよ書類一式を持ってワシントンの輸銀本部に提出することになった。
N,Y,ワシントン間は飛行機で小一時間。ラガルディア空港に行って予約なしにイースタン航空のシャトル便に乗る。(切符は機内で支払う)
ワシントンに到着した我々は輸銀の本部に行って担当者であったジョルダン氏に書類を提出。1週間位全てをみた後、足りないところをN,Y,に戻って書類を作成した。
行ったり来たり、書類の審査は少しづつ完成の域に近づいた。その時東京から今井課長がやって来た。我々の当初の計画は2,500万ドルを借りることになっていたのだが、今井氏はそれでは足りない、ウラン燃料代金1,000万ドルを上乗せしなければならないと言って、持ち前のアメリカ人も舌を巻く程の英語力と頭の良さで、輸銀側を説得した。結局3,500万ドルを借りることが出来るようになった。
そこで我々はひとまず日本に帰ることにした。今井さんには我々は洋食が食べたいと言うと、笑いながら「ナイト・フォーク」というステーキ屋に連れていって下さった。
日本に帰って来た我々は社内の説明は勿論やったが、一番大変だったのは役所である。威張っていた。ご機嫌を損ねてはいけない、腫れものに触るように役所と付き合った。
問題はウラン燃料1,000万ドル分の融資の取り扱いである。これは事前に大蔵省に話をしていなかった。為替管理がうるさかった時代だったので、国際金融局はおかんむりで困った。それと同時に閣議了解で「濃縮ウランは国有とする」という事になっていて、何故民間の所有が認められないものに1,000万ドルも勝手に借りて来たんだというお叱り。それからしばらくはこの閣議了解を変更するために飛びまわっていた。
役所の人とはよく飲んだ。贅沢な所ではなく小さな安い店が多かった。その頃の東京にはまだ三業地(料亭、芸妓の居るところ)が幾つも残っていて、麻布十番にも料亭があり芸者さんがいた。今ほどうるさくなかったので、酒を酌み交わしながらお互いの人間を知り、知識も広めていった良い時代の話である。
大蔵省もご機嫌を直してくれて、国内での体制は整った。あとは最後の仕上げである。難しい契約書を日本語に翻訳する仕事。顧問弁護士に頼んで法律意見を書いてもらうこと。(実は弁護士は、こんなものは君が書けといって結局私が書いた)全てが整ったので再び米国に向かった。

追記
その頃の三井物産の現地法人はパンナムビルにあって、よくそこでTelexで東京と連絡をとっていた。国際電話の料金は高かった。
カルチャーショックを受けたもう1つのことは、お手洗いに入るのに鍵がいることであった。(パンアメリカン航空という会社の本社ビル。この会社は倒産した)

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