経歴
2016年3月31日
私の歩んで来た道(33)
国内で役所関係も全部説明しましたし、東京電力には初めての原子力発電のワシントンの輸出入銀行の融資であるので特によく説明をした。
4年据え置き、16年払い、金利は年5.5%と国内の銀行より低い金利であった。加えて日本開発銀行(今の政投銀)が保証することになった。
最後の打ち合わせに穐山さんとともに米国に向かった。もうあまり打ち合わせることもなく、輸銀との話し合いはうまくいったが、一つだけ気に入らないことがあった。それは契約と同時に6.5%のコミットメントフィーをくれと相手方が言うので、お金をほんとに使い出したら利息は払うけれど6.5%は高すぎるということを強く申し上げた。相手のジョルダン氏はそれでは5.5%に下げましょうと折れてくれた。そして冗談に貴方にシボレーのカマロ(当時の流行の自動車)でも会社は買うべきだ、と言って皆で大笑いになった。
N,Yとワシントンの往復は続いていたが、ワシントンではやはり「Holiday Inn」という安い所に泊まっていた。
いよいよ融資契約調印の日が来た。東京からは一本松社長、GEからも副社長がまずN,Yにやって来た。
そこで懇親の為にGE、三井物産、原電でゴルフをやることになった。運良く私はメンバーに入っていなかったので安心していたら、穐山さんは社長のキャデイをやれと言う。上司の命令であるから渋々やったが、それでも社長がプレーしやすいように心を尽くした。米国ではゴルフというのは自分でクラブを担いでやるというのが当たり前であった。
そして一本松社長と共に調印の為ワシントンに行ったが、ホテルは社長と一緒でなければいけないということになって「スタトラーヒルトン」という所に宿泊した。しかし辛いことには、私の出張旅費では赤字になる。しかし会社はそんなところまで面倒はみてくれなかった。
調印は無事終り、穐山氏は経理部長に昇格した。そして日本に帰って来たら秘書室長に呼ばれ、君に今度ヨーロッパに行ってほしいのだと言われる。私は生意気にもヨーロッパに用事はないはずだと申し上げたところ、「実は今度、民社党の佐々木良作氏他2名の議員が核拡散条約について調査に行くことになった。原子力問題に詳しい者を貸してくれと言われるので、君に頼むことにした」と言われる。
私が申し上げたのは会社の出張費では賄えません。秘書室長の大神さんは「それは後で相談しよう、君が行くことは決まりだよ」と言われる。原電の労組は同盟の電労連の一部で民社党の支持。頼まれるとなかなか断れないのであった。
民社のメムバーは、曽根 益議員、岡沢 寛治議員、事務局からは渡辺朗さんが参加することになった。
まず行き先はユーゴスラビア。チト大統領のもと、今は想像がつかないがあの地域は安定していた。驚いたことが一つある。ホテルの玄関で女性に声を掛けられた。夜の女である。びっくりしたのはその女性が証明書のような物を見せ、自分は政府の公認であるという。共産主義社会でそんなものが存在するということは夢にも思わなかったのでびっくりした。
その次はルーマニアに渡り、その当時若く人気のあった「チャウセスク大統領」とお目にかかった。その次はイギリス。イギリス労働党の大会を見る為であった。他のメムバーは夫々用事があって日本に帰ってしまっていた。
佐々木先生と私は田舎の小さなホテルの一室のツインベッドでいろいろ話を伺った。俺と一緒に戦った仲間はどんどん居なくなってしまったなと感慨深く言われたのを覚えている。佐々木氏は議員になる前は日本発送電、いわゆる日発の労組の輝ける書記長であった。そして旅行はまだまだ続く。イタリ―のコモ湖で遊んだ。「舞踏会の手帳」という名画の舞台である。そこからスイスで開かれている社会主義インターを覗きに行った。
そして最後はドイツのボン。そこで私の運命は大きく変わる。
宿泊したホテルに中曽根康弘先生が来られていたのだ。中曽根先生はフランスで最先端の高速機「コンコルド」の見学に行かれた帰りであった。もともと佐々木、中曽根両氏は仲が良く、それでは今夜は食事を一緒にしようということになって、名前は忘れたが古城のレストランに行った。その後佐々木氏はこんな事を私に洩らした。「俺は俺のやり方で民主主義を守るために、また正常な議会運営のために努力して来たが、政治家のあり方としては、中曽根さんの方が正しいのではないか」
会社の仕事抜きの旅は楽しい。また自分の知らない政治家という種族をみたのは大変勉強になった。またカメラマンも務めていて、沢山の写真を撮った。
追記
- 曽根さんは外務省出身、私の父の親友であった。
- そのルーマニアで政変があった時、チャウセスク大統領が射殺されるシーンを見てショックを受けた。日本の政治は生命の危険がないだけ穏やかである。
但し戦前の5.15、2.26等のテロは日本を不幸にした。
中曽根先生の会「Fireside」はルーズベルト大統領の炉辺談話をならって名前が付けられていた。別に会社の役員とか著名な人というより、会社の現場の第一線で働いている若い人の集まりで、中曽根先生もまだ40代、それでも若い人と話すことで時代の息吹を感じておられたのだと思う。
質素な会であった。いろいろな方がおられたが読売新聞の渡邊恒雄、氏家斉一郎記者もまだ30代のバリバリの記者であった。であるので中曽根先生は民社党の佐々木良作氏と私が欧州旅行をしたことを怪訝に思っておられたに違いない。
会社ではBWRの導入も決定したし、資金もアメリカから借りることが出来たので、社員は皆張り切っていた。各電力会社からは優秀な技術陣が原電に集まって原子炉技術を取得し将来に備えるという時代であった。
そして突然経理部長に呼ばれ米国に行け、経理担当の梅野常務のお供をしろと言われた。輸銀との契約は済んでいたが、手形の差し入れが済んでなかった。開銀が裏書きした手形(1枚で約130億円)を持って米国に出発した。部長からは常務は今期で退任するので楽しい旅行を計画しろと命ぜられていた。
そこで私はサンフランシスコ、N,Y、ワシントン、メキシコという日程を組んだ。サンフランシスコでは、メルトーメのショウを見たり、N,Yではフラメンコ・スペインダンスを見たり、美味しいものも沢山食べた。ワシントンに行って輸銀に手形を差し入れる仕事は10分で終わった。
それからメキシコに向かった。予約してあったホテルに行ったが部屋は無いという。そんな事はないだろうと押し問答が続いたがポケットから20ドル札を1枚出して受付に渡したら直ぐに部屋は有ると言う。日本では考えられない事が有るのだなとつくづく思った。翌日はアカプルコに行くことになっていたが、梅野常務は私に「我々こんなに遊んでいていいのかね」と言われる。いけないに決まっているので、アカプルコはやめてロスに向かった。ロスから東京に電話をすると部長は「常務は東京に、君はN,Yに」と言われる。何の用事ですかと訊ねたらアメリカの銀行にL/Cを開設する。それをお前がやれという命令。
梅野常務を空港で見送った後、ホテルであれこれ考えたが、お金がないのでやれる事はなかった。その内自動車の免許を取ろうと思って教習所に行き、筆記試験1日、実技1日でカリフォルニア州の運転免許を取った。(これを後に日本の免許に書き換えた)
そして3日後N,Yに向かった。L/C(信用状)の開設はマニファクチャ―ラ―ハノバートラスト銀行(今はもう無い)であった。毎日銀行に通って信用状を書いていた。普通の機械であればお手本は幾らでもあるが、原子力関係の前例はなく1人で苦労していた。その仕事も1ヶ月程で終わり、東京に帰ったが、東京ほど良い街はない。今ほどきらびやかではないが、安心安全という点ではN,Y等とは比べ物にならない。
給料は相変らず25,000円位でピーピーしていたが、外国出張する時、会社は支度金を50,000円支給してくれた。これは出張の時の大いなる楽しみであった。
ある日、中曽根事務所の小林克己秘書が会社に訪ねて来られ、中曽根氏の外国人との交流の仕事を手伝ってくれと言われる。このことが政界に入るきっかけになるとはまったく思わないで引き受けた。