経歴
2016年4月7日
私の歩んで来た道(35)
経理部の一社員として、輸銀の借款導入は一段落したので、通常業務に戻って地下鉄で通勤する日々が続いた。
長銀の上原君がやってきて、長銀が今度上場するので貴方も株主になってくれと言う。一体幾ら必要なのか聞くと、5万円ですと言う答え。それなら自分もギリギリ負担できるので一株主にしてもらった。そのうち野球部の後輩の長田君が病気になったので上原君と相談して、その株を手放し、利益をお見舞いに充てることにした。
ある日また大神秘書室長に呼ばれ、世界一周して来いと言う。何ですかと申し上げると今度9電力でウラン資源の調査を行う。日本にはウラン資源は僅かしかないので、世界の何処かの国とウランの長期購入契約を結ぶ必要がある。我が社でウラン鉱山に詳しいのは君が一番だ。会社を代表して調査団に参加しろというご命令。調査部にいた時、1人でこつこつ勉強してきた事が役立つ日がきて、とてもうれしかった。
調査団長は東電の田中直次郎副社長、そして各電力からは俊優が集った。日程を決めることから私は参加した。
その頃のウラン鉱山の事情は、概ね次の通りであった。
- 第二次世界大戦終了後の核開発の為、ゴールド・ラッシュの時のようにウランを求めて人々は動いた。
- その結果、ウランを産出する有望な鉱山は米国、カナダ、オ―ストラリア、南アフリカ位であるという事が判った。
- 核兵器の為のウランの需要は頭打ちになりはじめ、米国政府のウラン購入方針も変更を迫られていた。
- 米国政府はウランの民有を認める法案を米議会に提出した。
- 原子炉は(a)天然ウランを使う型(b)低濃縮ウランを使う型に大別される。
日本が最初に導入したのは、天然ウラン型であったが、米国の原子炉(BWR、PWR)はいずれも低濃縮ウランを使う型である。 - 従ってウランの鉱石(それを製錬したイエローケーキ)を確保することも大事だが、それを濃縮するという技術も不可欠であった。従って濃縮サービスをどう確保するのかということもあわせて不可欠であった。
- ウラン需要も頭打ちになり、軍事用の濃縮も需要もどんどん減少していた。
- その当時稼働率が落ちた軍事用濃縮工場を持っていた国は米国、イギリス、ソ連、(ヨーロッパの一部、中国)であったが、日本が濃縮をお願いするのは米国、イギリス、欧州とみられていた。
そこで我々はまず、ワシントンに赴き、米国のウランに関する政策、濃縮サービスに関する方針を非常に詳しく調べた。その結果は、米国からウランも購入できるし、濃縮サービスも購入できると確信した。
それからユタ州に行って、鉱山の現場を見た。ユタ州というところは地面の下が全部石炭というような場所で、資源のない日本には想像できないところである。
そこからカナダに飛んだ。カナダもウランの有力な産地、独立系のデニソン社、英国系のリオ・アルゴム社等の鉱山を見学し、会社の意見を十分聞いた。カナダは長期契約の相手方として十分だなという感触を得た。
そこから今度はロンドンに向かった。そこで英国原子力公社の話を聞き、またリオ・チント社という大鉱山会社も訪ねた。リオ・チント社はアフリカ、オーストラリア、カナダ等で各種の金属を生産する、大英帝国時代を彷彿させる会社である。
それからフランス、ドイツと原子力関係者に会って、ウラン政策の将来について夫々の方針をよく聞いた。笑い話しであるが、パリに滞在中「ムーラン・ルージュ」に行こうという事になって行ったら最前列に予約席があった。「ムーラン・ルージュ」のショウは楽しい。踊りもとても良い。そして最後に出て来たのはアラブの手品師、私は舞台の上に引っぱり出された。色々な手品を見せてくれたが、最後に私に次の呪文を唱えろと言う。「ヒヨコよ私の背広のポケットに来い」と言うと、両脇のポケットからヒヨコが出て来た。内ポケットも見て下さいと言うので上着の内ポケットを探るとやはり2匹のヒヨコが出て来たではないか。その後「ヒヨコよ、ズボンの中に来い」と言えと言われ、その通りに言った途端、股間にもぞもぞした感覚があり、ズボンを揺するとヒヨコがストンと出て来て舞台を歩き回るので観客からは拍手大喝さいになった。
その調査団の詳しい報告書は私が書いた。嵯峨根常務から呼ばれ詳しい説明を求められ、名誉なことであった。(嵯峨根博士は長岡半太郎先生の子供であり、実験物理学者として米国内でも知られた方であり、米国は嵯峨根氏宅に落下傘で新爆弾危険性を予告していた)