経歴
2016年4月28日
私の歩んで来た道(39)
昭和46年、47年と2年間の準備で東京1区(千代田・港・新宿)から立候補することとなった。
当時の東京1区は三人区で、自民が田中栄一氏、民社(麻生良方氏)、公明(渡辺通子氏)の3名が現職であった。
自民の田中栄一氏は大変名の通った方で、戦後の難しい時期に警視総監を務められた方である。田中氏の陣営は強力でほとんどの都議・区議のサポートを得ていた。そんなところに32歳の若造が出ていくのは大変難しいことであった。
但し幸運なことに、新宿では小野田増太郎、千代田では川俣光勝両都議は旗色を鮮明にしていなかった。
小野田都議は中村梅吉先生が、川俣光勝氏は中曽根先生が支援のお願いをして下さった。
この2年間を振り返ると、もう二度とあのような見通しの立たないことは出来ないと思う。
新宿では小野田系の区議、他の区では2〜3名の区議の支援しか受けられなかった。とにかく歩きまわるしかない、知らない人の家に名刺1枚で訪ねて行く毎日であった。それでも千代田区では後援会が生まれ、新宿区でも形はできた。しかし田中栄一氏の地元港区は状況は進展しなかった。ポスターを張って知名度を上げる、パンフを作って訴える政策を書いて後援会員を募る、この2つの文書作戦の他は、さしたる手段はなかった。
しかしある時、石原慎太郎氏が演説に来て下さることになり、九段会館で大演説会を行った。中曽根先生も駆けつけて下さり、満員の盛況になった。
これをきっかけに千代田区では少しずつ展望が開けていった。新宿でも、港でも田中栄一氏は強力で、なかなかうまく立ち向かえなかった。自分でポスターを抱え、秘書と2人でそれを全区に張ってまわった。ポスター作戦は一番安上がりの作戦であったが、「張っても良いよ」と言う家はそう沢山はなく、頭を下げてお願いをした。
当時の新宿の自民党支部は丸山茂という人が支部長で、私はなかなか相手にしてもらえなかった。
事務所の体制も少しずつ整ってきたが、選挙に精通したものはおらず、また事務局長をやる人も見つからず、素人グループで手探りで運動をやる毎日であった。
資金の方はなかなか集まらない。「票を集めていると、お金が集められない。お金を集めていると、票が集められない。」この悩みは本当に深刻であった。月1万円の会費の後援者で経済後援会を作っていたが、毎月集っていたのは40〜50万円程度で、月末には1万円の支払いに困ることが度々あった。
しかしあの時代は5〜10万円で1人の給料であったので何とかやっていけた。ここでは一人一人のお名前は挙げないが、「若い人間を育てようという善意の人が日本には沢山おられる」ということを身にしみて判った。
時がたつにつれ、支持者も増え、千代田、新宿は形が整ってきたが、港区は全く進展はなかった。但し麻布小学校、麻布中学校ということは自然に支持者を増やしていった。
いよいよ選挙が近づいた。自民党公認を取らなければならない。これは難しかった。現職の田中氏が断固として反対していたからである。佐藤栄作前総理の次男信二氏に相談したところ、竹下登、渡海元三郎両副幹事長をご紹介下さった。また地元の後援者の一人大久保謙氏にご相談したところ、自分の同級生の西村英一副総裁にお願いしてみようと言われた。選挙の公認を決める会議は荒れに荒れた。しかし櫻内義雄氏宇野宗佑氏などが会議で本当に顔を真っ赤にして私の公認を主張して下さった。
竹下副幹事長にお目にかかった時、なぜ公認が欲しいのかと言われ、私は「東京ではウィスキー1本でも包み紙が大事なのです。」と答えた。後日竹下氏はこう申された。「あの会議での櫻内さんの頑張りは凄かった。君は感謝しなければいけないよ。」
選挙の初日は私は無所属であった。しかし選挙戦4日目には「公認」となり、この選挙では落選したが、私の将来の財産となった。
当時は田中角栄氏が総理・総裁で列島改造ブームなどが起きていたし、角栄氏の庶民的なところが国民の人気を得ていた。所得倍増計画もまだ進行中で国民が夢を持てた時代であった。選挙の最終日、田中総裁は新宿で打ち上げの演説をすることになり、私は宣伝カーの上に乗せられ、初めて角栄氏を見た。横顔はとても怖いと思った。ここまでくるのにどんなに多くの回数、中曽根先生が私のミニ集会に来て下さったか、中曽根夫人は私と2人で要所を一緒に回って下さったか、私を育てて下さったのは中曽根先生ご夫妻、中曽根派の人々である。
私は落選した。同時に麻生・渡辺両氏も落選。東京一区は田中栄一氏、社会党の加藤清政氏、共産党の紺野与次郎氏というメンバーになった。なぜ共産党が当選したかは判らないが、列島改造ブームの反動ではなかったのではないかと思う。加藤清政氏は千代田の都議であったが、人柄も人格も極めて高い評価を得た人である。
落選することは辛いことであるが、この選挙の結果は次回に繋がるものであったと思う。
本物の候補者であると認められたのが嬉しかった。昭和47年12月のことである。