経歴
2016年5月19日
私の歩んで来た道(41)
それにしても三木総理対挙党協の争いは凄まじかった。
12月の選挙の最終日、党内の対立が国民から批判を浴びるということがひどく心配された。そこでその日新宿駅頭に、三木・福田両氏に同じ宣伝カーの上で、演説をしてもらうという話が出来た。
東京1区の候補者与謝野・大塚の両名はまず前座を勤めた。そこに福田氏が現れ演説をした。終わる直前に三木氏が到着。福田氏はマイクでこう言われた。「それでは自民党総裁三木武夫総理をご紹介します。」とたんにマイクを渡された三木総理はこう言われた。「ご紹介されるまでもなく、私が総理。総裁の三木であります。」我々はしらけた。
選挙の結果、三木内閣は退陣。そして福田内閣が誕生した。その日私は党本部8階の大ホールで福田総裁の初めての挨拶を聞いて、本当にがっかりした。我々の指針ともいうべき事を言われるのかと思っていたが、型通りの挨拶で何の感銘も受けなかった。
私は胸をはずませて初登院した。
この選挙で初当選したのは52名であったと思うが、今は昔もうほとんど国会に残っていない。
その当時の花形委員会は建設・大蔵・商工などであったが、私は地方行政委員会の委員とされた。地行は自治省、警察庁の所管のことを取り扱う委員会で、地味この上ない仕事であった。そして原子力問題があるので科学技術特別委員会にも入った。初めて科技特で質問をした時はとても嬉しかった。
初めて知ったのは、予め質問は役所側に渡し、それに基づいて役所は大臣の答弁資料を作る。大臣はそれを勉強して答弁に臨む。いわば台詞は決まっているお芝居みたいなものである。
この1年生の時、山崎拓氏や加藤紘一氏が作っていた「新エネルギー研究会」に入会。
「新エネ研」では米国に勉強に行くという。中村喜四郎氏、中西啓介氏と共にこれに参加したが、3人で帰途ブラジルに行こうという話がまとまった。地図で見ると近そうであるがとんでもなく遠い地球の裏側であった。サンパウロ・リオと回ったが、サッカー試合を見た時、大きな旗を振る、また大騒ぎするファンにびっくりした。今日本でいうサポーターであった。
帰りはへとへとであった。帰りは飛行機の都合でハワイに寄ったが、3人共へとへとで一泊したがホテルに籠りきりであった。
ある先輩から1年生議員は政策に関わりを持つより、1年生の仕事は2年生になることであると教えられた。従って私は地元回り休日なしでずっとやっていたし、例えば好きなゴルフは止めることにした。
毎日毎日地元の何がしかのイベントがあり、招待状が来たら必ず顔を出していたが、長時間留まると次の会合に間に合わないので途中退席する。「与謝野は来たと思ったら直ぐ帰る」という悪い評判も出てきてしまった。
東京1区では大塚雄司さんという几帳面で達筆な筆まめ、そして地元を大切にする人を相手にすることは本当に苦労がいった。何かの会があると、招待もされていないのに押しかけて「挨拶」させてもらうというずうずうしい事は頻繁にやっていた。町会・商店街・各種団体・趣味の会・宗教団体、冠婚葬祭等あらゆる会合に顔を出して、名前と顔を売って歩いた。
風にのって当選する昨今の議員の方はうらやましい。
但し、地元回りは国民の声に直に接することが出来るという政治家として一番大切な部分、そして役人に勝る部分を作る上で大変大事であった。
それでも3人が当選できる選挙区であったので、大衆迎合的なことばかり述べていたのではなく、大袈裟に言えば天下国家を論じる事も可能であった。今の小選挙区はおよそすべての議員が大衆迎合的傾向を持たざるを得ない。何しろ1名しか当選できないのだから、政治ではなくお世辞にならざるを得ない。
国会の委員会、本会議のある日はうれしかった。何しろ面倒な地元回りをやらなくてすむからである。
1年生の時、記憶では二度質問に立った。一度は科学技術特別委員会で原子力エネルギー問題、もう一度は地方行政委員会で地方公務員の給料の高さ、渡り等の問題を取り上げた。一度ヤジをとばして地行委員会が止まり、先輩議員からお叱りを受けた上に、委員会で陳謝する羽目になった。
その頃の地元の都議は、千代田区が川俣光勝、木村茂、港区が平山羊介、新宿区が小野田増太郎、田辺哲夫の各氏(敬称略)であった。
ある日、木村都議が私を訪ねてこられ、都議会の定数を125名から128名に増すことはできないか、そうでないと千代田区は1名になってしまうという事を説明された。私は1年生議員だったが各党の地方自治の関係者を必死に回り、ようやく立法にこぎつけた。
ある日、23区の協議会の横田事務局長が訪ねてこられ、23区に人事委員会がない、公平な労使関係を築くためには人事委員会がどうしても必要だと力説された。(横田さんは鈴木都知事の副知事になられた方である)これも各党を自分1人で回り、立法にこぎつけた。(後日東京都が私に親切にして下さった大事なきっかけであった)
当選したのは38才、そして39才の時、鼠径部のリンパ線が大きくなっているのに気付いた。
山口病院ではまず感染症を疑い色々な抗生物質を試したが、全く効かない。
山口先生はそれでは「リンパ節」を一つとって病理検査をしましょう。そして慈恵医大で検査をしてもらいましょうという事になった。
山口先生のメスで「リンパ節」を一つ鼠径部から取った。検査の結果をそれから心配しながら待っていた。10日程して山口先生を訪ねると、院長室でこう言われた。「検査の結果、これは濾胞性リンパ腫という悪性リンパ腫である。自分はこの分野に詳しくないので、慈恵医大と相談する。もし詳しいことを調べたかったら図書室に行って調べたらよい」私は直ちに山口病院の図書室の医学書を見つけ、どんなものかを勉強した。
その本には濾胞性リンパ腫の余命は「2年」とはっきり書いてあった。議員になって一年足らずで奈落の底に突き落とされた気持であった。
事務所の人間にも、家庭でも検査の結果の事は一切話をしなかった。39才のみそらでもうガンというのはついてないと思いながら、医師の言われる通りの治療法、すなわち抗ガン剤を3種類いっぺんに投与するという治療をはじめた。
毎週土曜日に山口病院で点滴と注射をした。副作用は当然体にあったし、心の方も挫けそうになっていたが、知らん顔をして地元を回り、議員活動を続けていた。唯一の慰めは車の中で音楽のテープを聴く事であった。その頃、ポール・モーリアの演奏はよく聴いた。
薬は三種類
(1)ビン・クリスティン夾竹桃から抽出された薬
(2)エンドキサンナチスの毒ガスから発見された薬
(3)プレドニン副腎皮質ホルモンのことである。
でもこのころから血液ガンには、抗ガン剤がよく効くようになって来ていたのは近代医学の恩恵である。
その頃の私の楽しみは(ゴルフは止めたし、酒もあまり飲まないし、友人とのバカ騒ぎも嫌だったし)囲碁である。囲碁のことは別に詳しく書こうと思っているが、私が囲碁を打つことを知った都連では粕谷代議士、安井参議院議員などとは顔を合わせると「君打とう」と言われた。
一度は安井先生のご自宅まで連れていかれた。なかでも思い出多いのは保利衆議院議長である。ある碁会で一度お相手をしただけで、すっかり気に入って下さって、議長公邸から始終電話があり公邸に招かれた。伺うと和室に通され、保利議長は私に上座に座れと言って譲らない。お寿司も用意されていて万事行き届いた事であった。帰り際議長は必ず1万円を教授料として下さった。その議長が暫くして入院をされた。磁石付きの小さな碁盤を持ってお見舞いに上がったが、間もなく他界された。
ある時、保利議長は私にこう言われた。「君の碁はキチンとしてとても私は好きだ」私が初めて立候補した時の総裁は田中角栄先生、ご挨拶に伺ったとき、色々な話をされたがこう言われた。「石原慎太郎君は優秀だが、いきなり大臣といわれても、新入社員をいきなり常務取締役にしろと同じようなことで無理だよな」
私は当選して間もなく中曽根先生をお訪ねして、議員としての本分は何ですかという質問をした。
中曽根先生の答えは明解であり、議員生活を通じて守り続けた考えである。
「議員というものは、憲法に基づいて国家を運営することである。」
この言葉は私にとって簡明であり重いものであった。