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経歴

2016年6月23日

私の歩んで来た道(44)

いよいよ選挙だ。自民党の中は分裂していた。
選挙の初日、大平総理は私の選挙区である新宿で第一声を行うことになり、自民党の大きな宣伝カーの上には司会の田辺氏、候補者の大塚・与謝野の両名、そして大平総裁が並んだ。私は丁度大平氏の真後ろに立っていたが、大平氏の演説の力の入れようには本当に驚いた。全身を使い、振り絞るようにご自分の考えを述べておられた。中身は全く覚えていないが、大平氏の異常ともいえる力の入れ方にはただ唖然としていた。
大平氏は演説を終えると次の遊説場所へと出発され、私と大塚氏も地元千代田・港・新宿を「立候補のご挨拶に参りました」とスピーカーで宣伝するために出発した。驚いたのは大平氏の体調を崩して、虎ノ門病院に入院したというニュースである。

当時私の選挙区は、社会党の党首の飛鳥田氏、公明の木内良明氏が現職でおられた。
いずれも強い方達であったが、私の支持者は今回こそは自分の支持している人は落とせない、例えば中小企業の社長夫人は1日100本以上の電話を掛けまくって下さっていた。
私を支持して下さる区議も今度は負けられないぞと、自分の支持者達に与謝野支援をお願いして下さっていた。
今考えると私が経験した13回の選挙の中で支持者の盛り上がりはこの選挙が最高だったと思う。

選挙戦が中盤を迎える頃、大平氏のベットの上での元気な姿の写真が発表されたが、数日後には死亡されてしまった。心筋梗塞と報道された。初日の異常な高ぶりと何か関係があるのではないかと思った。
大平氏死去とともに街の様子が一変した。宣伝カーでどこを回っても、私の知らない方が手を振って激励して下さる。演説会には人がよく来て下さり大盛況。ムードが一変するとはこの事を指すのだと思った。大平氏の死が日本人の心に大いなる同情心を生み、それが自民党が健闘する最大の要素となった。
全国では自民党の候補者は黒いリボンを喪章として付けて戦う人が多いといわれていたが、私はちょっとだけわざとらしいと思って、自民の候補者が付けている黒いリボンは付けなかった。

報道各社が行った当時の世論調査の結果は全国でも、東京1区でも自民党に大変良いものになっていた。
中曽根先生に総理になるチャンスが来たと思った。
その事で特に田中派の親しい議員とは情報交換をして、中曽根総理実現の可能性を探っていた。
しかし残念な事に当時は「中曽根に首相をやらせたら、何をやるかわからない」というのが一般的評価で、昭和20年代の戦後国会等で中曽根氏がとった行動が不安定だということで妨げになっていた。
しかし、選挙が終了すれば新しい総裁・総理を選出しなければならない。他に目ぼしい人はいない。中曽根氏が最適任だと思っていたが、私達が知らないところで陰謀が進められていて、まさかと思ったら「鈴木善幸」氏が突然浮上してきた。その当時友人達の話を聞くと「善幸さんが総理になれるなら、俺にもチャンスがあると」考えた人が沢山おられたとの事である。

選挙は圧勝した。投票率はすごく上がり、上がった分は全部自民党の支持であった。
大塚氏も連続当選を果たし、二人の選挙区での戦いは、これからも続くことになった。
中曽根先生は行革担当の大臣を引き受けられた。これが後に国鉄の大改革につながって行くことになったのである。予想もしなかった「鈴木内閣」。その中で財政の悪化が忍び足でやって来ていた。
それを気付くのは、あと数年かかった。

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