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経歴

2016年7月21日

私の歩んで来た道(47)

鈴木善幸内閣ができて、一見安定していると思われていたが、専門家の間ではじわじわと鈴木内閣は追いこまれ、やがては退陣に至るであろうという見方が底流の中で広がっていた。
ある時、中曽根さんに呼ばれ一枚の資料を見せられた。
「与謝野君、この数字を見てどう思うかね。」要するに財政は公約と違い、極めて悪くなり、説明不能になるという事だった。政治家では田中六助議員も、どうもこれは先が見えなくなったと感じられていたのではないか。そして間もなく鈴木内閣は退陣ということになり、総裁選挙が行われるようになった。福田氏・河本氏等が候補者、最後は議員の投票で決めるのだが、福田陣営はそれでは総理、総裁は分離して、総理には中曽根、自民党総裁には福田、という昔の良い話をもってきた。この申し出を中曽根氏は拒否した。

正々堂々の手続きで中曽根内閣ができた。官房長官には「カミソリ」といわれた後藤田氏の就任。マスコミの評判は低かった。暫く経って中曽根首相が訪米することになり、私も同行するように命ぜられた。
嬉しい事にホワイト・ハウスにレーガン大統領を訪ねた時、中曽根氏から「ミスターヨサノ」ですと紹介された。ほんの数分ではあるが、歴史的な政治家にお目にかかれて凄く嬉しかった。この時レーガン大統領にお目にかかった写真は私の後援会報の表紙に使った。現職の大統領にお目にかかったのは、クリントン大統領、オバマ大統領である。辞められた大統領では、パパブッシュ、ジミーカーターさん達である。

この訪米で中曽根氏が行った演説の中で「日米安保の中で、日本列島は不沈空母である」と述べて、評論家達からはさんざんの目にあった。この時ソ連はまだ健全で、太平洋のロシア海軍の出口に日本は位置していた。
中曽根氏が執念のように追い求めたのは、国鉄の民営化、そして分割だった。これに反対する勢力は激しく抵抗したが、例えば三塚博先生などは他の仕事はすべて国鉄の分割・民営化実現にかけておられた。

そしていよいよ選挙の時が来た。抬3回目の選挙では、2回目に落選したことは、私にとっても事務所の人間にとっても良い薬になっていて、地元も引き締まり良い成績を残す事になった。しかし総選挙の結果は厳しく自民党は議会での数をキチンと確保する為には新自由クラブと連立を組む事になった。新自由クラブからは党首の河野洋平氏が入閣され科学技術庁長官になられた。
その時、科学技術委員会の自民の理事は小宮山重四郎、塚原俊平平沼赳夫、そして私であった。この中で河野大臣に好意的な人はいなかった。俊平・赳夫は特にそうだった。ですから科学技術庁は我々三人の面倒をみるのが大変だったろうと今頃反省している。 例えば河野大臣の食事の招待を断ったり、大人げ無いことをやっていたと思う。三人共麻雀仲間でスケジュールは直ぐに決まった。連休の第一日目ソ連でチェルノブイル発電所で大きな事故があった。
ソ連政府より早く米国は偵察衛星でそのことを知っていたのである。私は事の重大性を二人に申し上げた。休みであるから三人は雀荘に居たのである。
国会としても事の重大性に鑑み、連休中であるが科学技術特別委員会を開いた方がよいのではないかという事を確認し、役所にもその旨通告をした。気の毒にその時、河野大臣はオーストラリア訪問のため機中の人であったが、着陸後一番早い飛行機で帰って来られた。ソ連政府自体もロクに事実を確認できていなかったから、質問と答弁は誠に中身の無いものであった。その当時科学技術には関晴正氏というおもしろい人がいて、原子力には何から何まで反対。「芸は身をたすく」という言葉があるが、委員会の運営がこじれてくると、関さんと碁を打って、本当に仲良くなっていたから、向こうの無理ものむし、こちらの無理ものんでもらった事は度々である。

ある時、関さんと小沢さんという議員で動燃事業団廃止法案を出して来た。私はそれでは社会党の議員提案の法を審議しましょうと申し上げた。この事で怒り狂ったのは動燃の職員組合である。社会党も慌てて、我々に撤回するという。一度提出したものは自民党の同意がなければ撤回できない事になっている。自民党も審議していた法案があるので、それに協力して下さいと申し上げ、社会党案は短時間我々が質問することでお茶を濁した。この関晴正氏は日本に活断層が沢山ある。彼の地元の青森では色々な計画されている施設の下に活断層が走っている。毎日のように「活断層」「活断層」と聞かされていたので、活断層の話がでると関先生を思い出す。
日本の役所の科学技術知識の低い事、これは福島の事故でさらに明らかになったと私は思う。

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