トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(48)

経歴

2016年7月28日

私の歩んで来た道(48)

丁度私が2年生議員の時、昭和51年田中角栄氏逮捕で始ったロッキード事件は、その後政界を何年も揺るがし続けてきた。
私の母の姪に「和子」という子がいて、父は早く亡くなり、妹の「浪子」とともに母の兄の未亡人に育てられていた。家は逗子にあり、私はこの姉妹にことのほか可愛がられ、夏遊びに行くと、庭の小さな池に小さな蟹が住んでいた。大きな蚊帳の中で蚊取り線香をたいて眠りにつくというのは、今考えるとなんと優雅な事だった。

私の母道子は、その和子の為に縁談を見つけてきた。相手は大久保利春氏、大久保利通、明治元勲の直系であったが、貧乏な商社マンであった。
大久保氏の居た会社は合併を重ね、丸紅飯田の後に社員となった。彼は真面目に働き常務にまでなっていた。その時ロッキード事件が起きて、彼も法の追及を受ける事になった。ずいぶん長くかかった裁判は、田中氏実刑という厳しい結果となった。政界は大騒ぎ、事件を冷静に見ようという政治家より、自分は如何に田中氏とは無関係だと言いたい人ばかりであった。

ジャーナリズムも盛り上がり、野党もここぞとばかりに攻撃する。自民党も堪えきれなくなり、田中氏には辞職してもらうと、そしてその事を中曽根総裁が田中氏に直々に伝えることになった。
多分場所はホテルオークラの一室で、田中・中曽根二人の会談となった。
会談の中身は報道されているものとは随分違っている。田中事務所の浅香あきらさんや佐藤昭子さんから直接その時の様子を私は聞いた。それによれば、一通りの説明したのち、中曽根氏は自分の考えをこう述べたそうである。「自分は田中君は辞めるべきでないと考えている。君の地位は有権者によって与えられたものであり、他人があれこれ言えるものでない。私はそう思うので君の信念に基づいて行動してほしい。」会談は終始和やかであったようである。
そんな時、自民党は選挙せざるを得なくなった。逆風の中、中曽根自民党は良く戦った。私も必死に戦い当選できた。

経歴一覧へ