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経歴

2016年9月8日

私の歩んで来た道(54)

私は一年生議員の時から、日本の国の家計、すなわち財政の事を心配していた。一年生の時、人の勧めでミニ国政報告会(1会場2〜30名)を開いていた。取り上げたテーマは、時のエネルギー問題と国のお台所の話であった。話はこのままでは日本の財政は大変なことになるという話だったけれど、今考えるとその当時国債発行残高は30兆を超えたところで、今の日本の財政俗にいう国の借金が1,000兆円を超えてしまった局面とは違ってみえるが、「このままではもうやっていけないという問題の本質」は全く同じである。
このことを最初に指摘されたのは、同じ派の先輩である野田毅議員であって、中央公論の誌上に「ヨーロッパの付加価値税」という研究論文を発表され、我々知識の無い者にとって欧州の福祉社会がどのように維持されているのかという事を初めて学んだのである。

そして福田内閣から大平内閣へと時代は移り変わり、大平内閣は「一般消費税」の構想を打ち出すにいたった。一年生議員であった私は税が選挙の結果にどう響くなどという事は全く考えておらず、一議員として一般消費税の必要性を選挙区内でアピールして回ったのである。
ところが昭和54年(1959年)大平内閣のもとで選挙が行われるに到った時、「一般消費税」の国民的評価は低く真面目にこんなことを正面から説いて回る人間に対する評価は低くこの選挙で私が敗れた原因の一つになった。殿様商売をやっている選挙区内の中小企業の経営者から新聞誌面で、私に対する明らさまな批判を読んだ時、「これはやり遂げなければならない」という逆の信念ができてしまった。これは今でも続いている私の消費税に対する原点である。(但し「全ての新税は悪税である」という言葉を知らなかった一青年議員であったのである)

その後内閣は鈴木善幸氏・中曽根康弘氏と続くのであるが、この新税の話が本格的にぶり返したのは中曽根政権の時代であった。しかし中曽根政権は財政再建路線を明確に打ち出したが、選挙の時の公約との整合性を問われ、議論は進まなかったように思う。但し中曽根政権の時代は「売り上げ税」という呼称で議論が進められたが、この名前だと税を転嫁するのは難しい。立場の弱い中小企業・小売業はどうしてくれるのかという立場からの反対が極めて強かったように思う。任期5年を立派に務めあげた中曽根政権は中曽根総理のもとで大蔵大臣を務められた竹下登氏が次期の総理となられた。あまりいい時代ではなかった。プラザ合意以降急速に進んだ円高、バブルの進行、そしてなかでも政治的な困難をもたらしたのがいわゆる「リクルート事件」であった。
私の高校3年生の時のクラスメート石坂君が、竹下大蔵大臣の秘書官をやっておられ、竹下大臣の人の知らない努力に感服している様子は彼の話から直ぐに判った。竹下内閣が出来て「付加価値税」の話が政策として本格的に取り上げられる事になった。丁度その時私は党の政調会の「商工部会長」をやっていた。通産省の私のカウンターパートナーは現大分県知事の広瀬知事で、彼は税制全般の責任者の課長であり、会議の前には必ず広瀬氏と細かいところまで打ち合わせをしていた。(企業行動課長という不思議な役職名であった。)

党の商工部会・通産省の立場は次の諸点に集約できたであろう。

  1. 売り上げ税という名前はよくない、最終的には消費者が負担する「消費者の税」ということを名称からも明らかにすべきである。
  2. 爺さん婆さん二人で細々とやっているような小売店などの税の事務負担を軽減すべきであること。
  3. 従ってみなし課税の制度を作ったり、一定規模以下の事業者の納税事務を簡素なものにすること。

要は税の転嫁を容易にすること、納税事務の負担を軽くしよう、簡潔にいえばこの二点につきたと思う。

いよいよ党の正式の機関である「自由民主党税制調査会」が開催された。
税調の会長、小委員長、及びインナーと呼ばれていた幹部2〜3名は絶大な権威を持ち、物事を左右できる権力者であった。
税調の総会の初日、当時の会長の山中貞則先生が会の始まりにあたってのご挨拶をされた。

『諸君は今大変危険な事を議論することを始めようとしている。間接税の議論が如何に政治家にとってリスクの高いものであるかを諸君に知っておいてほしい。お隣の国、韓国でも間接税の導入をわが国に先んじて決定した。この間接税導入を議論した韓国国会議員は次の選挙で全員が落選した。韓国の国会の議長から伺った話である。私は日本が例外という事にはならないと思う。しかし日本の財政の将来、社会保障制度の将来を考えると、この問題は党として避けて通ることのできない課題である。諸君はこの事を肝に銘じて議論して欲しい。』

税調の総会では部会長は室の前方に座席が確保されていたが、この山中会長のご挨拶には粛然とした気持ちに皆なったと思う。
この制度改正は今まで存在していた間接税を全部やめて(酒・ビールを除く)消費税に統一しようとするものであった。
例えば砂糖の税、宝石、時計等の税、自動車の税、等々幅広い分野に影響を及ぼすことになった。但し欧州の中で低い税率におさえられている軽減税率問題はほとんど議論の対象にならなかった。党の議論の行方などは専門書に譲る。何とか自民党の中の手続きはパスしたが、国会にいってからは大変であった。特にリクルート事件というものが予算・税の国会での議論に与えた悪影響は大変なものであった。国会が動かない。予算案と税制改正案がいわば人質のような事になっていた。
竹下登先生が私によく言われた言葉に、「汗は自分でかけ、手柄は人にあげろ」というものがある。竹下総理は夜は密かに国会議員のところを回り、国会運営の打開に努めておられたようである。
最後の手段、「自分は首を差し出す。予算と税の審議は是非お願いしたい」、この方法でようやく国会を通過する事になった。

急に辞めるという事になったので、首相は誰が適任かということになると、なかなか人はいなかった。
宇野宗佑氏がいいのではないかというコンセンサスができて、竹下退陣後の総理となった。しかしスタートから官邸関係者の不用意な発言があったり、私の選挙区の神楽坂の芸者が騒いだりという事があり、まず地方選挙で自民党は負け、夏の参院選挙では宇野辞任に繋がる酷い成績であった。我が派閥の中は、宇野対渡辺という不仲の構図があって、我々若い議員にとってはすこぶる居心地が悪かった。

宇野首相の後は海部首相となった。早大雄弁会出身で弁舌は極めて滑らかな方であった。自民党の中は地方選挙、参院と連敗したため消費税に対するアレルギーは極めて強かった。年が明けて2月に衆議院総選挙という成り行きになった。我々若い議員の多くは、消費税をどのように有権者に説明したらよいか困惑していた。東京出身の議員はほとんど全員が消費税を反対するような演説をしていた。(法律は通っているのにである)
1月になると東京の議員は1日10〜15ヶ所位の新年会回りをしていた。同僚議員の東京2区の新井将敬議員も同じように地元回りをやっておられた。そんな中である日、新井氏から私の自動車電話に連絡があった。
「与謝野さん私は自分の数ある後援会の人を対象に世論調査をしてみました。その結果意外な事が判りました。国民の心理の底流はもう既に消費税に積極的に反対ということではなく、消費税を受け入れるこれが判りました。」
この電話は貴重なもので今更消費税に反対ですという卑屈な態度をとる必要はなくなったと私は思った。新井将敬さんは大秀才であった。彼の世論調査ほど私に勇気と信念を与えたものはない。

海部内閣は選挙で十分な成績をあげる事ができて、時代は海部時代へとページはめくられる事になった。しかし国民も政治家も気が付いていない社会の変化が始まった。1989年の暮に株価は38,000円のピークをつけ、ここから長い道のりの資産バブルの崩壊が始まった。企業は企業で自分の関係の無い分野に投資をして来たし、金融機関は事業の採算性など関係なく担保があればどんどんお金を貸し込んでいた。株が上がる、それがもとで土地が上がるというスパイラルは終わりを告げようとしていた。しかしこの事を正面から受け止めている人は少なかったのではないかと思う。

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