トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(55)

経歴

2016年9月15日

私の歩んで来た道(55)

国会対策委員会(略称:国対)議院運営委員会(略称:議運)は国会運営の要の存在であり、それと同時に与野党が正規のテーブルに着いて国会運営の指針を決めてしまうところである。私のような「政策マン」として綺麗事に終始して来た人間にとっては、いきなりタコ部屋に放り込まれたような運命の転換であった。この二つの機関は国会運営についていわば全責任を持つところであるので、場合によって党の幹事長(いや総裁を含めて)の権力をも凌ぐ権力機構であった。また各役所も自分達が国会に提出した法案(勿論予算も含め)がどういう順番で国会で取り扱われるか、これは各役所にとって死活問題でもあった。
人格者の山崎拓先生のことであるから、意地悪でこれらの部署に与謝野馨を送りこんだ訳ではないと信じているが、国会運営に手を染めた事が一度もない私にとっては大きな試練となることは明白であった。(勿論法務委員会、商工委員会等の運営に携わってきたと自負しているが。)

国会対策委員長は剛腕で知られていた梶山静六氏また議運委員長これまた実力者で有名な森喜朗氏であった。この二人に同時にお仕え申し上げるのは極めて難しい。森さん、梶山さんも二人きりになると互いにちょっぴり批判をしていた。私もこの二人に同時に仕えるという事は与謝野の性格からいって無理だろうというのが一般的な評価であった。
まず議運の方であるが、森さんは周囲の反対を押し切って私を筆頭理事にすえた。そこは私は森先生に感謝している。筆頭理事に権力は集中する。どんな人達が理事を務めていたか、森先生がいつも自慢そうに話をされるのは、自分が委員長の時の議運の理事達はみんな出世した。谷垣さんは自民党の総裁、幹事長。大島理森氏は今は衆議院の議長である。鳩山由紀夫氏は後に総理に、みんな良い線をいったのは自分の恵眼であったという事をよく自慢話として私によく話をされた。国対の方はいわばガラクタを集めて野党と折衝しようというのであるから、梶山氏もさぞかし大変だったと思う。しかし実際に国対の中で野党と上手く折り合いをつけられるのは。国対委員長本人他2名位の人達である。

そこで持ち上がった事件は突然サダムフセインがクエートに侵攻した。石油資源を押さえたのである。そこでこれは明白な国際法違反であり、国連もこんな事を見逃すわけにはいかない。国連ではこの事は放置できないという明確な意思決定が進みつつあった。
武力でクエートを取ってしまったのだから、武力をもってして原状回復の措置が必要だという事も国際社会の中ではコンセンサスが出来つつあった。時の自民党の幹事長は小沢一郎氏であったが、その当時深刻な路線対立が党内にあった。
ひとつは金額のトータルの問題である。色々なルートで交渉が進められてきたが、交渉に出ていく人によって、随分お金のトータルが違っていた。ある意味でいかに米国にすり寄るというのが、次の権力者の目標であった。あとは国内で1兆円を超えるような財源をどうするのか、法律も予算も国対のスケジュールは梶山氏に委ねられていた。それは私の仕事でもあった。議運でどうすれば野党と折り合いがつくのか、これはたいそう難しい作業であった。

当初は月曜日より審議を始めるというのが梶山氏の案であったが、予算委員会の現場の鹿野道彦氏の意見を伺うと1日のことで無理をするなと言われる。国会の正面突破より少しのことなら野党の意見を聞いて、スムーズに審議した方が良いだろう、というのが鹿野・与謝野の全く一致した意見であり、その事を前提にスケジュールは組まれた。しかしこの事は梶山氏の逆鱗にふれたようで、私は国対委員長室で小一時間怒鳴りまくられた。

梶山氏は糖尿病が持病でそのことが「怒りんぼ」につながっていた。しかし私は自分と鹿野氏が決めたスケジュールは一歩も譲らなかった。梶山氏の交渉は随分田中派一強時代のやり方のもので、戦費を出すのに一日の遅れはどうという事はなかった。私も頑張り通したので、梶山氏は最後には折れて下さった。戦費はアメリカの手に渡り、そこでまとめて使う事になっていたが、未だにどのようにお金が動いたのかは「1兆円を超す金額」にもかかわらず、いまだに不明である。それでもこれだけのお金を拠出するのであるから随分感謝されるはずであると思っていたが、戦争が終わった時、米国内の各紙の広告宣伝には日本の事が書いていないのではないか。というような「実はこうだったのである」というような揣摩臆測は幾つか聞こえてきたが、どれが真実かは判らない。時が過ぎても日本の国際的評価はゼロと言っても良いほど悲惨なものであった。

朝の国対の会議が終了した時、梶山氏と二人きりになった。梶山氏曰く「金を出せばそれで日本の国際的責任を果たした事にはならないのだな」「なんか良い知恵はないものか」。実は私は前の晩寝る前に、アメリカの雑誌タイムに次のような記事が載っていたのを見つけた。
「夕闇せまるクエート海岸で毎日のように回収した地雷を、爆破する作業が行われる。ちょっと誤れば隊員もろとも大被害出る作業、その担い手は仏軍であった。戦争には必ずしも賛成でなかった。
「ミッテラン大統領」がこれをやっている。15分作業をやって1時間45分集中力回復の為休憩。」この記事を読んだ私は、日本の海の機雷回収には相当な技術と経験を自衛隊は持っていた。私は梶山氏に「機雷を除去する為の特別の船を日本は持っている。中近東に機雷除去の船を派遣するという話は中曽根内閣では成功しなかった。」
梶山氏の直感は素晴らしい。「与謝野、その掃海艇というのは、どんな船なのか」「どうしてペルシャ湾まで派遣できるのか」「憲法上許される行為なのか」等たたみかけるように質問された。
掃海艇というのは木造船であって500トン位の小さな船である。
もっと専門的な知識が必要だった。梶山氏はこの話はいい、「早急に調べてくれ」と言われる。この話は防衛庁と外務省の双方にまたがる話し、幸いにも私の中学1年の時のクラスメート内田勝久君(後のカナダ大使)は、外務省の人であったが防衛庁に出向しているところであった。私はその場から内田氏に電話をして、外務省・防衛庁の関係者と意見交換をしたいと申し上げた。彼の反応は素早かったが、会議に出てきた役人は半信半疑ではなかったかと思う。

私がその時頭の中に描いたのは次のようなことであった。

  1. 戦闘行為は終わっている。しかし敷設された機雷はペルシャ湾にばら撒かれている。
  2. 日本の掃海技術は世界の中でも屈指のものであって、これができれば平和に貢献したと言われる。
  3. 大体からいって、日本のタンカー、日本の船員、日本向けの積み荷、公海上ばら撒かれている等の事実を考えれば機雷は日本人の生命・財産をまさに危うくするものである。

会議の途中、後ろを振り向くとそこに梶山氏がソファーに座っておられ、外務・防衛の官僚と私のやり取りを初めから聞いておられた様子であった。
その当時、自民党は東京都知事選に関してまさに二つに割れていた。
その時の知事は鈴木俊一氏、小沢執行部はその四選を阻止するといって、知名度好感度共に高い磯村英一氏を候補として選んでしまった。一方東京都支部連合会は粕谷茂会長が鈴木俊一氏で良いではないかと党本部と真正面からぶつかっていた。鈴木俊一氏の「私の履歴書」を読むとよく判るが、GHQが内務省解体した後は、一課長として残り、今の地方自治に関する主な法律「地方自治法」「地方公務員法」「地方財政法」等は全部鈴木氏の作品といっても言い過ぎではない。私も東京出身の議員として粕谷会長と行動を共にしていた。
まさにこの知事選が熱が入り始めた頃、この「掃海艇」の話が話題になり始めた。しかし大方の人はそんな事は出来るわけはないと常識的なことを結論としていた。
私は日本のサダムが担いだ知事候補者との戦いに自分の地元に帰り、国会の方は全体として休戦状態になっていた。

梶山静六氏の政治家として優れていたのは、その直感力であり、その行動力である。
直観力とは、外務・防衛、そして与謝野の議論を聞いて、これは憲法上もOKだし、国民世論としても受け入れられるという判断である。多くの良識派といわれる人達も最後にはうなずくであろうという判断である。これをどう実現するかは迅速な行動力が求められていた。というのはインド洋で5月頃「モンスーン」といういわば太平洋の「タイフーン」毎年メキシコ湾の「ハリケーン」なるものが発生する。発生したら500トンの木造船ではとてもでないが、インド洋を渡る長い航海は無理であって、なるべく早く決めないともう間に合わない。それと遅れれば他の国の掃海で日本が釣れる魚は一匹もなくなるという事も指摘されていた。
後に梶山さんから直接伺った話では、第1回目の海部訪問はさんざんで総理からは文字通り「ケンモホロロ」。「梶山君こんな事は無理です」と全く取り上げてもらえなかったそうである。しかし梶山氏は総理相手に熱弁をふるった。「1兆円もお金を出したのに、国債社会は評価してくれていない。お金だけでは駄目で汗をかかないと日本の評価は沈んだままです。」こんなことをいくら主張しても海部首相の考え方は全く変わらなかったのです。普通の政治家はこの段階で諦める。総理が強く反対している事を打開できないであろうと。しかし梶山氏の粘りは凄かった。
口説かれた相手は、経団連、電気事業連合会、船主協会、タンカー協会、船員組合等であった。
これは梶山氏本人から伺っているので確かであるが、この期間人に会うと説法していたに違いない。船の関係の団体については、当時運輸大臣であった村岡兼造氏が随分と働いたと伺った。また都知事選が終わっていない頃、一度国会に顔を出すと梶山氏がおられた。そしてこう言われた。
「なあ与謝野君、海部という人は無重力の中をどっちが上か下か判らないままだだよっているんだ。」
昨日官邸に海部総理をお訪ねしたらこう言われるんだ。
「梶山さん、日本は中近東で絶対汗をかくべきで、掃海艇派遣というのは国際貢献に高い評価を得られる日本の仕事だと思う。是非このことをしっかり進めて欲しい。」
梶山氏は本当に180度転換にはびっくりしたと言われていた。結局は掃海艇派遣を容認する形になったのは梶山氏の功績である。

国会が終了したので中曽根先生にご挨拶に伺って、くどくどしく国会での自分の苦労をお話ししたが、「与謝野君、この国会の全ては掃海艇派遣だよ」と断言される。
掃海艇が横須賀を出港される時は、中曽根先生はご自身で見送りに出かけられたのである。この何気ない海上自衛隊の海外派遣は色々な事に扉を開けた。特にPKO(国連平和維持活動)は日本の国連における評価に極めて重要なものとなった。
その後に日本の総理(例えば小泉・安倍氏)の行動と判断の原点は梶山氏の渾身をこめた努力によって戦後を過去のものとし、日本の国際貢献の在り方を形成していった原点であると思う。

この一点を突破したのは。

経歴一覧へ