経歴
2016年9月22日
私の歩んで来た道(56)
都知事選で小沢幹事長が推薦された磯村氏が敗れ、小沢氏は幹事長を辞職した。長い目でみるとこの一件が最後には自民党分裂という所まで進んでしまったのだと思います。
私も自民党の東京都連の幹事長をやりました時、本格的な候補者をと考え、石原信雄氏に立候補していただきましたが、都民は自民党的なものに対する拒否感が強く、今回の都知事選(2016年)も自民党的なものは嫌だ、よし自民党にいじめられている小池百合子氏で良いじゃないか、そのようなエスタブシュメントの選んだ候補者にはむしろ嫌悪感をもつのです。都民の同情心を集めた小池氏が圧倒的な勝利を得たのです。
梶山氏は湾岸関係の予算をキチンと仕上げた事、また日本の国際貢献を形をもって表すため「掃海艇」の海外派遣に成功した事等から政治家としての評価は高くなっていきました。
海部総理の弁舌は「セリフさえ用意」されていれば、誠に滑らかなものでありました。その頃自民党の中では一つの大きな変化が起きようとしておりました。リクルート事件を個別の事件としてではなく、政治の構造、体質、選挙の在り方によって起きたのであるという論法で個別の問題であったはずであったのに「政治改革」という言葉にすり替えられてしまったのです。(勿論その当時定数の不均衡は放置できないところまで来ていました。)
「政治改革」「定数是正」の二つの大きな流れは「小選挙区制」が解決策であるという事になり、党内で大議論になり、総務会では小泉純一郎さんがほとんど孤立無援の中で熱のこもった弁舌を奮い、私はその事で小泉さんという方をすっかり見直したのです。
しかし総務会長の強引な運営で総務会で法案が了承されてしまったのです。小選挙区法案はいよいよ国会に来る事になったのです。
その頃だったと思うのだけど、国会事務局に米海軍とすごく親しい方がおられ、「与謝野さん、一度見聞を広めるために米海軍を見学されたら如何ですか」と言われる。「見学といってもいったい何を見るのですか」と申し上げると、「一番面白いのは空母【ミッドウエイ】を見せて貰うと面白いと思います。」私も好奇心のかたまりみたいなところのある人間なので、即座に伺いますと返事をした。
出発は厚木の基地からで、小型ジェット機に乗せられて、何処にいるか我々に判らない【軍事機密】である同艦に向かった。座席は普通の飛行機とは逆向きになっていた。着艦する時初めてその理由が判った。時速200km以上の機体をわずか数十mで停める、私の胃は体から飛び出すのではないかと思った。普通の常識では飛行機は着陸寸前には、スピードは墜落しない程度迄落とし、もしうまく着地できない場合はもう一度エンジンをふかし直して、もう一度と離陸する。航空母艦にはそんな距離の余裕はなく、飛行機が甲板に近づくと、逆にエンジン全開、カギをワイヤーにうまく引っかけられない場合でも、そのままTake-Off出来る仕組みになっているそうである。航空母艦の中で一番難しいのは着艦技術だそうである。まず発進は飛行機をワイヤーで引っ張る。(蒸気機関)そしてうしろの留め金が折れる時が離陸の最適速度である。降りてきた飛行機は3本のロープの1本にうしろに付いているカギを上手く引っかけて急停止する。上手く引っかからない場合は最高出力であるからそのまま離陸をする。一番難しいのは夜の着艦である。自分の機体を甲板に対して1〜2mの高さに維持するというのは並の技術ではなく、厚木基地で練習したいという気持ちは判る。
下の指令室に行くと飛行機毎の看板があって、着艦したものはその板を机の横に置く。失敗した飛行機は順番はビリになって上空で待たされる。待ち過ぎると燃料がなくなる。直ぐ空中給油機から燃料の補給がされる。2度も失敗すると、またあいつかよというつぶやきが聞こえてくるみたいである。見てみると2度も失敗した飛行機は「お前の着艦は許可しない。嘉手納基地に向かえという指令が飛ぶ」夜間の訓練は命懸けのものである。
翌日は艦隊対空のミサイルを打って見せて下さった。機関銃も飛行機から打ったシーンがあったが、ダダダといった途端に終り、爆弾は上から下に落とすものと思っていたが、体操の跳馬のような投げ方をしていた。甲板の下は格納庫。多分一機100億円以上もする戦闘機が翼を畳んで置いてあった。案内してくれた海軍の人に、一体何人この船に乗っているのかと尋ねたら、約5,000人近くですというお答え。「誰かに会いたいという場合はどうするのですか」、この船の中には郵便局があって、手紙を書いて投函するのだそうだ。一般の乗組員が寝泊まりする所を見学したが、誠にお粗末なもので、蚕棚みたいな所に寝泊まりさせていた。
一方夜のディナ―は艦長の小食堂。内装も立派で超高級レストラン風であった。恐る恐るこんなに待遇に差があっていいものでしょうかと伺うと答えはこれでないと船の中の秩序は保てません。
日本だって戦争の終わりに近づいた頃でも「山本五十六元帥がスプーンを取り上げると、それが合図のように生の演奏が始まる。」こういうのは世界中海軍のならわしなのです。
我々に与えられた夜の部屋は、ビジネスホテルの大きさ位だと思うが、快適快眠ができた。翌日飛行機で沖縄に立ち寄り一路東京を目指した。安保条約の実際は日本の努力も米国の努力ももの凄いものだと思う。航空母艦一隻で、ある国を押さえられるというのは嘘ではないと思う。
時の国対には事務局というのがあって、全ての委員会の進行状況を睨んでいた。そこは情報の交差点と呼んでも差し支えない位、情報がよく集っていた。その情報に基づいて自民党は作戦を立てていた。但し外から見るのと大違いは、ほとんど全ての委員会は仲良し委員会、各党穏やかに話しあって、何事もなかったように法律を成立させていた。但し予算委員会やその会期だけのために特別に設置された「特別委員会」は対決法案を扱う事が多く、毎国会波乱を含んでいた。
憲法、国会法では通常国会は12月に召集され、会期は150日間と決められていた。12月に召集されてもすぐ暮、年初と国会は自然休会になってしまう。
ある時国対事務局の佐藤部長(愛称サトケンさん)が私のところにやってきて、小さなメモを渡すではないか。そのメモには国会改革をやって下さい。1月召集にすれば国会の会期は文字通り150日間になる。また社会労働委員会を分離すべきで、社会保障の関連法案の審議をする社会委員会、労働省関係の法案を審議する労働委員会に社労委員会は分離すべきで、そうすれば国民にとって極めて重要な社会保障の関連法案がもっとスムーズにいくはずである。
この主張は最もであるが、野党をどう説得するか、これは難しい宿題である。
梶山国対委員長、森議院運営委員長にご相談したところ、難しいけれどやってごらんと、お二人とも言われる。