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経歴

2016年9月29日

私の歩んで来た道(57)

国会の1月召集、社労委の分離、これはいずれも戦後国会の運営の根底に関わる問題であり、まず各方面の意見を聞くことからはじめようと考えた。
衆議院の事務総長はじめ事務局、それとなく打診をしてみると現状変更は嫌だ、特に後ろに控える事務総長OB達は皆消極的。それでは役所はどうかといえば、大蔵省は自分達の予算編成が乱されるから守旧派。厚生省は古川貞二郎官房長、労働省は斉藤官房長、この二人には自分としてはこれからこういう事をやるが、裏に回って反対運動などやらないでほしいとよくお願いした。
今にして思うとこの二つの改革の主張はそれなりの合理性を持っており、社会党や共産党も理論の問題としては反対しずらかったと思う。しかし国会の場でこちらの主張だけのめという交渉は成立しない。相手にもキチンとメリットがあり、またフェアな交渉でないとなかなか進まない。そんな事を考えているうちに、国会の会期が終わった。毎年の恒例として、海外旅行の枠があり、議運委員長がこれを配分していた。

森委員長も理事全員の予算を確保した。理事だけでも自民5、社会党2、公明党1、オブザーバー(共産)1の構成になっていた。全員一緒に動くのでは派手派手しいので、ロンドンまでは一緒、そこで2手に別れ、森班、与謝野班となった。我が方のメンバーは谷垣、野呂(後の三重県知事)、阿部(社会党)、東中光雄(共産)であった。とにかく委員長の指示で妻を連れて来なさいという事で、途中のスケジュールは皆で決めた。
まずロンドンからトルコ、イスタンブルグ、アテネを経てエーゲ海を乗合観光船で回り、それからウイーンに入って、ザルツブルグ(モーツアルトの故郷)、インスブルック、ベルリン、そこで別の班と合流したが、自民より野党の方がずっと旅慣れていたのには驚いた。

途中で共産の東中光雄代議士の話を伺って深い感銘を覚えた。
彼は戦争の中でゼロ戦のパイロットをやっておられた。戦争の末期、青森県に置いてあったゼロ戦2機を北海道に移せという命令が来た。大勢の地元の人、女学生等が見送るなかで、大変派手な見送りの中を青森を出発した。しばらくすると僚機から合い図があった。近寄って良く見ると燃料タンクの蓋が緩んでいて燃料が漏れているではないか。もう手の打ちようがない。下は厳寒の津軽海峡、しばらくするとその若いパイロットは近づいて来て、キチンと東中氏に敬礼し、津軽海峡に向かって落ちていった。あまりにも賑やかな見送りで最後の点検を怠ったんだ。このエピソードを伺って、東中氏の政治家の原点を少し理解できたような気がした。

ウイーン、ザルツブルックの街道旅は美しい。山々も美しいし湖も印象に残る。
あれは有名なミュージカル「サウンドオブミュージック」のロケの場所で昼食をとった。そこで国会改革の話になった。私は森・梶山両名のご指示通り、譲るところは譲るという心構えは出来ていた。
そこで衆議院の委員長のポストの配分を変えてみたらどうかという話になった。色々数合わせをやってみたが最後に採用したのは、東中氏の案、湖のほとりで決めたものである。それによると特別委員長のポストは全部野党に譲る、私は直ちにその案に同意したし、森・梶山両名から戴いている譲歩の範囲であったからである。そこで社会党の阿部議員より、特別委員長だけでは寂しい、常任委員長も一つで良いから野党側に譲れと主張される。私の返事は衆議院の委員会の内、本当に仲良し委員会は建設、農林、商工である。いっぺんに3つは私がもたないが、毎年その内の一つという事であれば森・梶山両氏を説得してみる。これがあの大きな改革の顛末であるが、まだ東京に帰ると難題が待ち受けていた。

一つは委員長のポストであるが、議員が沢山いてポストの少ない現状で野党を優遇しすぎるのではないか。特に建設、農林、商工の重要なポストは政策上譲るべきではない。各族の大合唱が始まった。こちらはそんな話はどうでもよい。国会が1月召集になるという意義の大きさは皆には判らないだろうし、森・梶山両先輩は腕まくりでファイテイングポーズを一度も崩されなかった。
もう一つの反対勢力は大蔵省、国会事務局である。こんなことをやったら予算編成が出来なくなる、主計局長の斉藤次郎氏を先頭にあらゆる抵抗を試み、おかげで国会は空転したが、森委員長の揺るがぬスタンス、梶山氏の怒号の前には敵うはずはなかった。
この改革は森委員長の大きな功績であり、梶山氏をさらに高いところに押し上げてゆく原動力の一つになったと思う。自分自身にとっても、山崎拓氏から遊び人などとからかわれていた意趣返しが出来たと思った。
交渉事はこちらが一方的に勝つという事はあり得ない。交渉相手も本国を抱えているのであるから、細かいところはどんなに譲っても、本筋の所がしっかり実現できればいいのだと、今は国会のやりとりをそう考えている。
参議院の幹事長の山本氏から、議運の各人と役員会の席でよばれた時は本当に嬉しかったし、自分も一皮むけたのだなと思った。

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