経歴
2016年10月13日
私の歩んで来た道(59)
PKO特別委員会はそれでも審議は続いていた。普通はこういう難しい委員会は、止まるものであるが出口が見えないまま審議は続いていた。但し「国連平和協力法」の時と比べて、宮沢喜一、渡辺美智雄氏等が答弁に立つので、答弁のミスから委員会が止まる事はなかった。
「国連平和協力法」の時は、答弁に立った海部総理が「危ない所に人は出さない」等と答弁した為、あらゆる答弁の整合性が問われたが、PKO法案では総理、外務大臣、政府委員の答弁はしっかりしたものであったのは幸いであった。
1日の委員会が終わると理事会、その理事会も10分〜15分で終わるのではなく、1時間以上などというのは当たり前であった。しかし途中で気が付いたのは社会党の上原理事は審議は続けましょうという建設的立場をとっておられたように思えてならなかった。
こういう大事な法案の時は、地方での公聴会、中央での公聴会を行う事はなかば当たり前の手続きと手順であった。また公聴会が終わると採決の為の条件が満たされた事になるというのも、国会のほぼ慣例になっていた。
ここで江副さんについて少し書き残して置きたい。
江副さんの自宅は私の母の家の一軒おいて隣であった。昭和51年私が初当選を果たすと、母から電話があって、「近所の方からお祝いの品物が届いている。取りに来て下さいね。」
その頃、私は自分で車を運転していたが、35万円で買ったニッサンプレジデントで母を訪ねた。
母曰く「お隣の方は江副さんという方で、今後経営者としてものすごく伸びる人だと私は見ているんです。」「お前もお付き合いを始めたらどうかなと私は思っているのです。」その頃の私は社会の色々な動きを全く知らなかった。
戴いた品物はコーンポタージュスープの缶詰20本位であった。スープの製造元はリクルートファームと書かれていたので、農産物を扱う会社と早合点してしまった。母には「キチンと令状を書きます」と申し上げておいた。
PKO法案は憲法9条には直接関係のないと我々は承知していたが、日本社会党にとっては自衛隊の海外派遣という事は、日本社会党の存在意義に関わることであり、どうしても阻止したいという強い思いがあったものと思う。またPKO部隊が携行する小火器等はどんなケースでも使用する事は容認できないという立場であった。
与謝野筆頭理事としてはどうしてもこの法律をうやむやにしたくなかった。一つは前にも出た「国連協力法」のだらしのない終わり方も気にくわなかったし、世界の平和の為に日本人が少しは汗をかく事は、他の諸国の信頼を確保する為、必要な時代になったと信じていたからである。そして状況は次のような段階に到達した。
- 民社・公明は法案の中身には反対しなくなっていた。
- 他の重要法案の例と比べても審議時間は十分になった。
- このような法案は、地方・中央の公聴会を行う事がならわしになっているが、この法案について公聴会は円満に実現してくる事になった。
そこで私としては公聴会が終われば採決すべき時期が来たと判断していたが、同僚の自民党の理事も全員採決に臨むべきだと考えていた。このような場合、特別委員会の委員長であられた林義郎先生のご内諾を得ておく必要があったし、また社会党に内々こちら側の方針を伝えておく必要があった。林義郎先生は一見大人しそうな方であるが、委員長としての責任を果す、すなわち委員会の結論を採決という形で示すことが必要だという事を強く決意されておられた。
自民党の国対の体勢は弱く、委員会の現場としては採決の条件が揃ったという事を何回申し上げても、返事はいつも人ごとのようなもので国対委員長としても責任を分担するから採決すべきであるという事を言う人は一人もいなかった。もし現場が国対委員長の判断待ちになれば、この法案は二度と日の目をみない事になる。
これは日本の国際的立場を考えれば由々しき事になり、大きく国益を損する事になるだろう事は容易に想像できた。そこである日社会党の控室に行って、阿部未喜男先生にお目にかかって次の事を申し上げた。
「我々としては条件が整ったので採決したいと考えてます。」阿部先生は次のように答えられた。
「採決の時期が来たという事はよく理解している。この問題は日本社会党の存立の根幹の問題であり。少し騒ぎがおこるかもしれぬ。」
私は「少しの騒ぎ」という言葉をまともに解釈してしまった。そして過去の強硬採決と同じ程度の事になるだろうと考えた。
いよいよ採決の日が来た。そんな噂は野党側にすぐ伝わる。
我々の作戦は「まず質疑打ち切りの動議を出す。そして直ちに採決に移る」というもので、強行採決といわれるものの普通のパターンである。この動議は大島理森理事が出す事になっていたが、議場の興奮の為か「委員長」と言うべきところを「議長」と言ってしまったのは後の笑い話である。
その瞬間、委員会に溢れるばかりに詰めかけていた野党の議員(とはいっても社会党が中心だったが)が一斉に行動に移った。マイクはひきちがれる、委員長はさらわれる、委員会室のそこいら中で怒鳴りあい、掴み合い、殴り合い、取っ組み合いが始まった。
私は自民党側の戦闘の指揮をとっていた。この採決の特筆すべき点は、混乱が真剣に12分間も続いた事であり、職員の中には怪我人も出た事である。
普通の強行採決というものは、それなりのルールめいたものがあって、国民に自分達がどういう立場をとったかが伝われば良しとしたものだが、この採決は本気の本気。まるで小戦争のようなものであった。
後で現場の写真を見ると、中川昭一理事が机の上に立って私と一緒に号令を飛ばしているではないか。皆から「お前さんは戦闘員だったのに、なぜ指揮官みたいに行動していたのか」とからかわれる一幕もあった。
12分間も続いた乱闘採決も有効な採決であったという事になったが、さてもう国会は動かない。
そこで出てきたのは野党が少しだけ補充質問をやって法案を参議院に送るという案で、多分自民党金丸、社会党田辺のラインで決めた事であると思う。「与謝野は武闘派だ、あいつは無茶苦茶だ」と直後は言われたが、自民党国対委員会に任せておけば永久に採決には至らなかったと思うし、また林委員長の決断、自民党の理事の行動には心から敬意を表したい。
年末に近づいて森政調会長にお目にかかる機会を得た時、森会長より詳しい経緯を聞かれ、「私は今の国対ではこれから次から次へと物事が難しくなると思います。」と率直に述べておいた。その時点で次の通常国会でこの法案は時間がないので通らないというのが、与野党が共通して考えていたところで、そういう意味では野党も油断をしていたのだと思う。
年が明けて1月16日、国対委員長が更迭された。ご本人はびっくりしたらしいのであるが、客観的に見て難しい国会を乗り切るためにはやむを得ない選択であったと思う。後は誰になるのかなと思っていたら、金丸さんよりさんざん叱られた梶山氏の名前が上がった。私は他に有能な人はいないなと、自分の事とは無関係な事だと思っていたが、梶山氏より直ぐ来てくれないかという連絡があり、伺ってみると委員長を引き受ける事にした。「どうしたらよいのか」と言われるので、議運、国対の人事を代える必要があると申し上げて辞した。しかしその場面「俺について来い」という話はなく、1〜2日程経って、森政調会長からちょっと顔を出せと言われ、お訪ねすると、「なあ、梶さんから君をくれという話があった。」その時私は政調副会長であったので、直接には森会長の部下であったから、二人の間で決まった話は抵抗しようもなかった。野球のトレードのように梶山チームに戻されたのであった。
梶山氏は政治改革法案廃案とともに、追われるようにして国対委員長を辞められたが、難局にまともにぶつかって、これを打開できる力量を持った人は梶山氏以外にはおられなかった。
今回は「三顧の礼」をもって迎えられたといっても言い過ぎでなく、その補佐に私が選ばれた訳である。森政調会長、本当にすまなそうな顔をして、「君しかいないんだよ、梶山氏の考える事を良く理解し助けてあげられるのは。」そこで覚悟を決めて梶山氏と共に国対に乗り込む事にした。私が最初にした事は、議運の筆頭理事を交代させること。しかしこれも抵抗というものはあるもので、国対の幹部に言っても、人の入れ替え等という役割をやってくれる人はいない。
私が自らのりこんで筆頭の首をとり、中曽根派の枠の理事のポストをあけてもらった。勿論そこは私の行くポストで極めて重要なところであった。