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経歴

2016年11月10日

私の歩んで来た道(61)

PKO法案をはじめ難しい問題を片付けて来たが、議院運営委員会としてはまだ難しい問題が残っていた。それは国会議員に3人目の秘書を公費で持たせるという問題である。政治資金も集めるのがどんどん難しい時代に入って、秘書を公費で持って貰うというのは、与野党の共通の考えであった。しかしこれには大蔵省が猛烈な反対をし、また国会事務局もとても冷たかった。600人も新しく役人を作るという話だからです。この手形は私の何代か前に自民党側が苦し紛れに国会運営上の取引した、甘いいわば約束事であった。
それまで出口がなく途方にくれた結果、議長の下に「第3秘書についての諮問委員会を作り、そこの考え方を待つ事になっていた。」その答えは第3秘書は認めるにしても只の雑用係りでは駄目で、議員の政策活動を支えるような高度の知識を持った人という事になった。
委員には渡邊恒雄氏、大宅映子さん等、極めて見識の高い人が名を連ねていた。そのような答申は出たが、大蔵省は絶対に譲らない。
行革の時代に公務員を600人もいっぺんに増やしていいのか、そしてこの主張には国会の事務局も同調していたように思う。
結論だけ申し上げると、最後は梶山国対委員長の本当に強い主張に大蔵省が降りる事になった。相手方はその時の主計局次長の武籐敏郎氏であった。細かい事は省くが、中西委員長は増員に反対であって、年末の予算折衝はなにか滑稽であった。第3秘書の要件は難しくしてあったが、経験豊富な秘書(10年超の人)等は資格は認定制度をとった。

もう一つの難問は、PKO法案を採決する際に出されていた、社会党等の議員達の辞職願いであった。
社会党からはこれを本会議にかけて否決してくれという。中西委員長もそれでいくという。金丸氏や綿貫委員長もそれで早くやれという。私は抵抗した。あんな紙切れはいずれゴミ箱に捨てればよい。もし仮に審議するとなれば辞職を許可する事になる。いくらこの事を言っても自民党の幹部は納得してくれない。私は会期が終わるまでああでもないと言いながら引き延ばす事にした。
以上の二つの案件の他にも色々な日常的案件はあったが、各党間の信頼関係は確立していたので、大きな困難はなく時は過ぎていった。

梶山氏も私も、自民党が国会運営に苦労している時代に「雇われガンマン」であった。人は私の事を政策マンというが、実際は国会運営の専門家であった。国対に前任者の時代から席を置く人達は我々二人に対して、後から来たよそ者だと極めて冷たかった。どんな案件もお手並み拝見という態度であった。結局何事も梶山さんと私でやるしかなかった。
この間恐ろしい事が進行していた。それは後に「ゼネコン汚職」と呼ばれるもので、金丸氏は逮捕される。疑惑は国会議員に向けられる。都議会の選挙は近づいてくる、どうしようもない谷底に自民党は突き落とされることになった。

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