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経歴

2016年11月17日

私の歩んで来た道(62)

いよいよまた人事の季節がやって来た。
梶山氏から文部大臣でどうだという話が来たが、鳩山さんの後をどういう訳かやりたくなくて、あまり気が進まないという事を申しあげた。また国対委員長ならどうだという話も、この役職の苦しみを知っていただけに、私にはとても務まりませんと申し上げた。結局議院運営委員長という地味ではあるが、国会運営の要となるポストに就いた。
梶山氏は数々の功績により、党の幹事長という議員にとっては最高のポストに就いた。私自身は議運の日常の業務はほぼ完璧にこなしていたと思う。理事は谷垣禎一、鳩山由紀夫、中川昭一、大島理森、園田博之氏等各派の俊秀に来てもらった。

その頃我々が頭を悩ませていたのは、「ゼネコン汚職」「佐川急便の多額の献金」そして小沢一郎氏が未だ執念を燃やしていた政治改革、すなわち「小選挙区制の導入問題」であった。
まず火の手が上がったのが佐川急便の違法献金、金丸氏に5億円の寄付をしたという事が朝日新聞のスクープで発覚した。
この処理は金丸氏が上申書を提出する事によって、逮捕という事態は回避された。世間では金丸氏に甘い、何故5億も貰ってのうのうとしているのか、不公平ではないかという、社会の怒りが爆発した。
私もそれなりに研究したが、法律上身柄をとるという事はできない、本人が認め、書面でその事をきちんと説明している。これは身柄をとる時の基本で、本人が全面的に認めたものに対して身柄をとれるかといえば、刑事訴訟法上それは出来ないというのが一致した意見であった。
しかし火の手は竹下派の内部でおきた。
小沢氏がこの問題の処理で金丸氏を売ったと批判された事であり、この身内の喧嘩は世間では皆知るところとなったし、派閥の会合では極めて険悪な空気の中で野中氏や中村喜四郎氏が立ちあがって小沢氏を直接攻撃するところまでいってしまった。自民党としては検察が甘いという批判も受けなければならなかったし、党の中で一番有力な派閥が分裂の危機に直面してしまった事である。宮沢内閣はなす術を持っていなかった。また宮沢総理の政治改革に対する煮え切らない態度が小沢氏達の怒りを増幅させていた。それに加えて「ゼネコン汚職」の噂が広く広まり始めていて、埼玉県の工事で大手を含めてゼネコンがその談合に関わっているという話になっていた。いったい誰だ。何をしたのか。疑惑の手は新聞報道と共に世間の注目を全部集めてしまったといっても良いだろう。
また公正取引委員会と自民党の対立も日毎にエスカレートしていった。この事件には直接関係がなかったが独禁法の改正は課徴金の額を上げるという事で合意はみたが、埼玉談合事件の方のくすぶりは消えなかった。

私はその頃自民党東京都連の幹事長をやっていたが、間近に迫った都議選は苦戦が予想されるに至った。
ある晩塚原、平沼氏からたまには息抜きで麻雀でもやらないかというお誘い。6時過ぎてから始めたら、間もなく女房から電話。「法務省の刑事局の総務課長に至急電話をしろ」という言づてだ。
静かにしてもらって、電話をしてみた。普段は優しい人柄の課長はなんの感情も込めずにこう言った。「本日、金丸信を逮捕しました。また事務所の生原秘書も同様です。」電話は議会運営の責任者である私に掛かって来た極めて事務的なものであった。電話を切った後、私は二人に「金丸氏が逮捕されたそうだよ」とつぶやいた。そこは政治家は早い、塚原氏は電話をとって三塚氏にこの事を報告した。点数稼ぎである。これを見ていた平沼氏「俊平ちゃん調子が良すぎるよ。」塚原氏はニッコリ笑って「派閥の一員だから当然だろと」言う。我々は早目に切り上げて家路についた。
金丸氏の関係先からは、現金や金の延べ棒も見つかり、言い訳のつかない話になってしまった。
この事件の直後行われた都議選は予想をはるかに下回る成績。
また目前に迫った衆議院選も期待は大きくできない、そのような予想になってしまった。金丸氏はよくしゃべったので取り調べは順調であったが、野中氏等は小沢氏が金丸氏を売ったんだという考え。どこかのレベルで解決できる問題ではなくなってしまった。

国会の会期はどんどん少なくなってくる。
野党は社会党等が宮沢内閣不信任案を出す、場合によっては小沢グループが党を割ってそれに賛成することさえ噂されるようになった。そして不信任案は出て来たが私は不信任案を握りしめていて、議運は採決にはそう易易とは応じなかった。しかし三日も過ぎると先延ばしする理屈がどんどん根拠を失ってしまう。私も途方にくれた。そして夕刻開かれた理事会で谷垣氏に梶山執行部に行って聞いて来てくれ、いよいよ採決する事になる。勝つ見込みはない。谷垣氏はその返事を貰いに行ったが、直ぐに帰って来た。「採決して構わない」というのが執行部の考えであった。梶山執行部はこの点は情報不足で判断を誤っていたと思う。本会議場は鍵がかけられ、投票が始まった。結論はいうまでもなく我々の負け。宮沢氏は総辞職の道を選ぶのか、解散の道を選ぶのか、かたずをのんで見ていたが、宮沢氏は躊躇する事無く解散の道を選んだ。

後知恵はいくらでも出て来るが、混乱の中で正しい判断、戦略を選ぶのは極めて難しい。
評判の悪い自民党には選挙資金を出す事をためらう所も多く、銀行から借金をしようにもなかなか快く応じてくれなかった。
後に総理になる細川氏が率いる「日本新党」がなにか素晴らしく新しい政治を実現してくれるのではないかという期待を集めブームになった。ロッキード事件の後の「新自由クラブ」のようなものであった。他の選挙区のことはよく判らないが、東京一区に限って言えば、日本新党からは海江田万里氏、新進党からも名もなき新人が出る事になった。選挙の途中の世論調査を見て驚いた。まったく選挙活動等していない日本新党、新進党が上位を占め、私がかろうじて3位を占めるという淋しい予測であった。選挙の中盤に党幹部がやって来て、街頭演説会をやった。宣伝カーの上には私と大塚雄司候補も並んで立っていた。私はポケットから世論調査の大雑把な結果が書かれている紙を取り出し、大塚候補に我々二人は必至で頑張らないと危ないという事を申しあげたが、大塚氏は「世論調査なんて当てになりません」と意気軒高であった。後で事情通に聞くと公明党の支援が取れそうになっており、それが大塚氏の自信につながっていたのではないかという説もあった。選挙の結果は惨憺たるものであった。東京1区では日本新党、新進党、そして私がかろうじて滑り込んだ。

我々は政権の座から追われたのである。
連立8党による連立が小沢一郎氏主導で成立し、細川政権という得体の知れない政治体制が実現したのである。
議運委員長だった私は円満に引き継ぎを行う責任があったが、これがまことに屈辱的で嫌でしかたがなかった。当選6回になったのであるから閣僚の夢もあったはずであるが、野党になってしまった身としては政治活動の目標をどこに置いてよいか判らない、虚しい日々が始まった。
新宿では折角6回当選なのに大臣は無理になったなと、田辺哲夫氏から嘲り笑われる始末であった。

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