経歴
2016年12月1日
私の歩んで来た道(64)
選挙の終わった直後気分転換の為に海外旅行、オーストラリアに行ったが、朝からワインを飲んで過ごしていて、何処に行ったか、何を見たか等、全く覚えていない。随分長い間、議席を維持する為に努力をして来たが、野党になってみると今までの事が全てむなしくなる。16年間の我慢と努力が最後は野党に転落するという運命になるとは想像もしていなかった。それでも自分は当選できたのであるから、有権者を裏切らないだけの努力をしようと心に誓った。
政権を国会として引き継ぐという仕事は、敗戦処理をやる軍人みたいなもので、昨日までペコペコしていた若き議員に「お前は国会法を知らないのか」みたいな事を言われ、熟々嫌になっていた。8党の勝ち組は、意気軒高でその中に昨日まで自民党に居た人間が居ると本当に嫌気がさした。8党連立とはいえ、主導権を握ったのは小沢一郎氏で、ここでも「政治改革」という名の付いた小選挙区制度を持ちだして来た。
私は変な話であるが、政治から遠ざかりたいと思うようになっていた。毎日毎日が虚しいものになってしまった。私は中曽根先生をお訪ねし、長い野党の経験のある大先輩にこうお尋ねした。「先生野党の仕事というのは何なんでしょう。」先生の答えは簡明直裁で、「与謝野君、野党の仕事はたった一つ。時の政権を倒す」。その事しかないのであるというのが、先生のお答えであった。議会制民主主義の中にも「権力闘争」があるという事を、長い与党暮らしの中ですっかり忘れていたのである。という事は予算委員会で細川首相を追求した野中、深谷議員等は本能的に判っていた点では優れていた人達であると思う。
政権を離れてみると、世の中は自分達とは関係のないところで動いているという事をひしひしと感じた。スタートの時は細川新相の人気は高く、自民党が予算委員会で厳しく追求すると、地元の私の有権者は「与謝野さん、細川さんを苛めないでちょうだい」と私にくってかかる始末で、この連立の支持率には全く驚くべきものがあった。こんな事を経験すると何か仲間外れにされた気持になった。それでも毎日どう過ごすのかというのは、私にとって大事な事であった。
その当時私は自民党東京都連の幹事長をやっており、この仕事である程度忙しくなれた。また自民党の本部の広報委員長をやっていて週2回あまり元気の出ない役員会にも出席していた。公務といえばこの二つ位で後は委員会出席本会議出席ぐらいで、一日一時間も働けばあとはする事のないご隠居さんになってしまった。午前中は党本部、午後からは地元という生活が始まった。地元回りもやっていたけれど、それでも時間はたっぷり余ってしまう。そこで勉強をする事にした。テーマは今まであまり関心の強くなかった『環境問題』そしてかねてより勉強したいと思っていた物理学、その中でも素粒子物理と量子力学には自分が全くわからぬ世界としてひかれるものがあった。
地元の四谷事務所には7〜8坪の応接間があって、そこのソファーに横になってこの二つの分野の本を乱読した。「環境」の方は学べばそれなりに知識もつくのであるが、「物理」の方は本だけ増えて中身はさっぱり向上しなかったように思う。特に数学の壁は厚かった。毎日そんな単調な生活を続けていたが、塚原議員が時々麻雀に誘って下さったのは、無聊を慰めてくれたものであった。
順調な滑り出しにみえた細川政権であるが、佐川急便との政治献金の不透明な部分を鋭く追及され、これが最大のアキレス健になってしまった。それと同時にあまり用意をせずに発表してしまった『国民福祉税』は本質的には消費税と同じものであったにも関わらず、斉藤次郎、小沢一郎、総理の三人で決めたものだといって、評判は大変悪く、官房長官までも自分は聞いていないといって反対する姿勢を示し、この案は結局短い命で終わってしまった。
こんな事が細川政権に対する逆風となり、支持率はどんどん下がっていった。8党連立の中で日本社会党の事を大切にしなかったのが致命傷のような気がする。佐川献金を上手く説明できない細川総理はどんどん追いつめられていった。そして政権を投げ出すというところまで事は進んでしまい、後継は羽田孜氏になった。羽田氏は人格は立派だし、古い政治家のような駆け引きをしない。自民党時代から稀にみる私利私欲の無い方で、私の細かい演説会にどれだけ来て下さったか判らぬ程来て下さった。私の恩人である。羽田内閣には私の友人で「鳩山邦夫」「柿沢弘治」の二名が入閣した。この内閣が誰も短命になるなど考えもしなかったのである。
社会党が離れることによって、羽田総理の政権基盤は極めて脆弱なものになり、最後は総辞職か解散かというところまで追いつめられ、羽田総理自身は断固解散を主張したが、官邸に小沢氏がのり込み解散はやってはならぬと、羽田総理を説き伏せ、羽田内閣は瓦解する事になった。後をどうするか等考えていた人は少なかったと思う。細川時代に成し遂げられた最大の事は小選挙区制の導入であろう。よく8党がまとまったと思うが、社会党、公明党にとってはこの制度が次の選挙から大きなマイナスとして働き、社会党が一桁政党になってしまったのは山花氏の最大のミスではなかったかと私は思う。私は社会党、公明党、共産党には気の毒な制度だと思う。少数意見は選挙の段階で切り捨てられるのは不条理であると私は思っていた。
結局解散は出来ず、総辞職となって、こともあろうに自民党は社会党と連立を組む事になり、村山富市氏を首班指名した。自分の派閥では村山氏は駄目だというFAXが流されて来たが、そんな物を見る間もなく本会議が始まり、村山氏が当選した。みんな安保はどうするの、国旗国歌はどうするの、自衛隊はどうするのと心配したけれど、村山氏は極めて自分の役割を良く知っておられる方で、総理は総理としての行動規範が有るという事を本心理解されている方であった。
私は文部大臣を拝命した。念願叶って初めての閣僚になったのである。時の森幹事長をはじめ私の議運、国対時代の働きぶりを評価して下さった。私は猟官運動をした事は一度もない。ただ不幸な事は、他の無派閥の議員2名が我が派閥に参加したために、私達5回生は冷飯を食うはめになった事と、時の派閥の代表であった渡辺美智雄氏が病の為、渡辺氏自身の事は我々配慮しなければならない事に事情はなっていた。誰が私の事を推薦して下さったのか本当のところは判らないが、当時の森幹事長、梶山氏、竹下氏、そして当然の事として中曽根先生の強力なご推薦があったものと思う。自分の人格も十分完成していない人間が人様の教育担当というのはいささか面はゆいものがあった。秘書官は前川喜平氏であった。
この前川氏の妹のご主人が中曽根弘文氏であって、中曽根夫人から「貴方の行動は全部私には情報が入るのよ」とからかわれた。
私が文部大臣時代やった仕事を思い出すままに書いてみると。
- 長い敵対関係にあった日教組と和解した。これは省内でも反対が多く、日教組の人と私が会う事すら文部省は反対していた。私は総理より日教組も変わろうとしている。文部大臣としてそれを後押ししてやってくれと頼まれていた。私は文部省が主張して来た事は全部のんでもらった上での和解であったから、一部アンシャンレジームの党内文教族の反対など、歯牙にもかけないで物事を進めてしまった。
- 主任制等の認めてもらったこと。
- 校長の権限は権限として学校運営については認めてもらったこと。
- 国旗、国歌の反対運動は組合の活動方針から落としてもらったこと。
など文部省の立場は十分活かされたものと思うし、この交渉がうまくいったのも前事務次官坂元氏の手腕が大きかったように思う。
役人から特に喜ばれたのは、私の記者会見の時間が極めて短時間で終わり、発言の訂正は任期中1回もなかったのは自分では少し誇らしげに思っている。
一番困ったのは日の丸、君が代と現場の教育との関係であった。私の答弁は今でも省の正式の考えとして残っている。それは「教師は学習指導要領に従って生徒に国旗、国歌の事は教える。一方生徒は精神の内面的自由を持っているので、それをどう受けとめるかは一人一人の生徒の問題である」という答弁は委員会の席上で私が考え出したものであるが、今ではこれが文科省の正式の答弁となっている。