経歴
2016年12月8日
私の歩んで来た道(65)
文部大臣になって初めて登庁した時は嬉しかった。自分の父親が到達した限界を突破したように感じたこともあったし、母親に大臣の姿を見せる事が出来たのは少し自慢気であった。
大臣就任は派閥の力というより、年功序列で私の番が来たからである。私は党や政府の中で文部行政に関与した事は一度もない。私自身教育行政に携わる事はおこがましい、人格がそこまでいってないという思いがあったから。しかし自分が携わるのは教育そのものではなく、教育行政だと思い定めた。
文部大臣室に初めて入った後、次官の坂元氏と今後の打ち合わせをした。私は坂元氏に次のように申し上げた。
『文部省の中の事は中の内部秩序であって、私がいきなり口を出す事はおかしい。やはり、一生文部行政をやって来た次官がやるべきで、私からお願いしたいのはフェアーな人事をやって戴きたいの一語に尽きる。それ以上は口を出さない。』これで仕事の仕分けができた。勿論、局長近くになると次官と相談していたが、人事で陳情を受けた覚えはまるでない。
やはり大臣就任直後の一番大きな出来事は女房の大腸がんの手術であった。一つ良い事があると、一つ悪い事が起きる、私はこの事を迷信のように信じている。この年は、私は念願の閣僚にはなれたが、家族の病気は私が選挙をやっているからだと言われ、反論をしてみても仕方の無い事なので黙って呑み込む事にした。母は父が大使止まりであったのをいつも悔しがっていたから、息子が大臣になったのは上出来ではないかと私は思っていた。
文部大臣就任の最初の半年間はそう印象に残る出来事はなかった。あったとすればイジメの問題があった。私は物判りの良い人間としては振る舞わなかった。むしろ頑固な人間としてイジメた人間はそれなりに厳しい対処が必要だという事を全国の教育関係者に広く知らせる事の必要性を感じていた。
もう一つの深刻な問題は、国旗・国歌の話である。その当時法律で国旗・国歌はこうですと定めていた訳ではなく、いわば慣習法的にそうであるということになっていた。法律的に定まっていないものを何故学習指導要領に書いてあるのか、この点を執拗に責められた。『慣習法』もまた法なりと考えていたからこの点は十分説明できたが、子供に無理やり教え込むのは子供の自由を奪うのではないかという視点から随分責められた。私の答えは「先生は学習指導要領に従って、生徒に国旗・国歌について教える。生徒がそれをどう受けとめるかは、生徒には『自由』があり、そこで一人一人の『精神の自由』は確保される。」これが私の答弁で、私以降の文部大臣は皆この答弁を使っている。答弁の定番になっている。
私が大学生の時、野球部のマネジャーをしていた。私の下級生に高木剛君という強打者がいた。旭化成に就職したが、労働運動に身を投じ、総評を連合にするために随分苦労していた。その高木君から一度話を聞いて欲しいと言われるので、夕食をとりながら彼の話をじっくり伺った。要は「日教組」の問題で、今までの硬直的な路線から、生徒中心の組合活動に転換したいと考えている事を理解して欲しいというのが彼等の唯一の言い分で、日教組自体は今までのような政治路線からは、離れようとしているというのだ。考えてもみれば文部行政といわれるものは、対日教組対策の事で文部省、政権政党、日教組自体も子供の教育という観点から組合運動を捉えてはいなかった。
私が文部大臣になって日教組と会合を持つというような事は、省をあげての反対の事であって、自民党もまた反日教組の根は深いものであった。但し村山総理からは、直々に「与謝野大臣、日教組は変わりたがっている。面倒を見てやって下さい。」と言われていた。文科省からは日教組の人達とは会わないで下さいと強く言われていた。私はそんな事は構わず、高木さんや教組の横山委員長にしばしばお目にかかって、打開の道をみつけようとした。しかし自民党の中の教組アレルギーは相当なもので、まるで人間の集団ではないような目で見ていた。それでもこんな事では駄目だと言う人も増えてきた。新しく教員になられた方で日教組に加わる人は3割程度に減少してしまっていて、組織を維持する事自体が危機感に溢れていた。
しかし私の考え方は違っていた。減ったとはいえ、日教組に加盟している先生は3割を超えていた。この人達に子供教育に心の底から打ちこんで頂く、これぞ新しい教育に対する考え方ではないかと思っていた。義務教育に国が出しているお金は5兆円であった。
一方、過去違法ストを打って本部がそれを補わなければいけないお金は50億円。こんなものはちっとも惜しくないと私は思っていたが、古い教育行政が体に染み込んでいる文部官僚や自民党の文教族にとっては革命的な事だったと思う。
そこで前次官の坂元さんを座長にして非公式の検討会を立ち上げた。
文部省側もトップに近い実務者、教組側も物を決められる人が出て来た。争点となったのは、今考えると滑稽な簡単にみえる。
文部省側には私から原則に関わるような事は譲ってはいけない、しかし他の事柄はどんどん譲っても良いと言い渡しておいた。
最終的にまとまったものは
- 校長は学校の運営の最終的責任者であること。
- 初任者研修を認めること。
- 国旗・国歌の話は教組の闘争方針から外すこと。
などなどであり、将来はまた中教審の委員を日教組から出す、先方にとってはかなりの勝利であったに違いない。日教組も過去やった違法ストで賃金カットを受けており、そういう意味からも財政的に助かったと思う。
静かな平成7年が始まったと感じていた。代々木の体育館で全国のバレーボール選手権が始まる事になっていたし、文部省は後援していたし、またサンケイグループも後援していた。私は祝辞を読む予定になっていた。代々木に行くとフジ・サンケイからは私の碁敵の産経新聞社長の清原氏がサンケイを代表して来られていた。開会式がスタートした。間もなく私のSPがとんで来てささやいた。
「地下鉄の幾つかの駅に不審物が置かれ、多数の人が倒れている」という情報です。産経新聞の方も同じような情報を清原さんに上げていた。何が起きたのか、まったく判らない。清原さんと話をしてキリの良いところで会場を後にする事にした。