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経歴

2017年1月12日

私の歩んで来た道(66)

選挙が終了し、何とか当選できた。のんびりしたいなと思っていたところに「ゴルフのお誘い」、相手は私のいとこのご主人、日銀出身の佐藤氏である。佐藤さんがメンバーのコースでプレーした。
午前中あげてハウスに戻ると山口敏夫さんに電話しろ、電話をしてみたら何のポストが欲しいのかと聞かれる。あまり考えていないと答えると、政治家はもっと積極的でなければイカンよとお小言をいただく。
ここは上着がないと食堂に入れてもらえないらしい。午後のラウンドを終えて上がってみたら、今度は山崎拓さんから電話。
掛けてみたら、こんな大事な時にお前は何をしているのか。ハイ私は横浜に居ます。「女といるのか」。東京には1時間足らずで帰った。私としては政務次官やその他諸々のポストはやらせていただいたので、あまり個人としての希望はなかった。
拓先生より「与謝野君は議運と国対だよ」と詔があった。
委員長に予定されていた森さんは最後には総理になられた方。その実像はあまりよく世間に伝わっていない。
また国対委員長予定の梶山静六氏は後に幹事長をして、小沢氏と厳しく対決した方です。
まずは森さんとどういう仕事をしたか、メモ代わりに列挙する。

国会改革
ある時国対の部屋で、長い時間自民の国対を支えてきた「佐藤部長」から小さなメモ帳を貰った。それには改革が必要な事として

  1. 通常国会を12月に召集するのではなく1月とする。
  2. 厚生、労働を一つの委員会でカバーしている。社会保障関係の法律が通りづらくなっている。
  3. あと一つあったのですが失念。

私もよく勉強し、森・梶山両先輩の意向を伺ったところ、お二人とも「与謝野、これでいけ」とおっしゃる。事は重大で憲法マターである。まず与野党の理事に説明に回った。共産党は理解力が高く、またいろいろサジェスチョンを下さった
丁度その頃、年末恒例になっている各委員会の海外視察の時期になった。全員の分まで予算はなかったので、旅費の配分権限は議運委員長が持っていた。ならば議運だけは毎年海外に行けたのである。
森委員長のもと全理事が夫人共々参加した。(但し共産は例外)森班、与謝野班で各々の旅程を決めた。全員ロンドンまで一緒、そしてそこで別れて我々はエーゲ海の紺碧の中に浮かぶ島々を回った。
こういう所で2,500年も前にギリシャ文明が花開いたのか、感銘のひと時でした。そこからアテネに向かった。

仕事の話に戻ると、1月召集という国会改革は自民党ばかり得をする。野党にはメリットはない、どうしようかと国会改革を扱うのに野党の人達は苦労しはじめていた。そこで浮かんだのが多数党の自民が委員長を独占している今のシステムに手をつけようという不可能と思われる案である。
旅はギリシャの首都アテネと続き、市長にお目にかかって今後のアテネのお話を承った。そしてウイーンへ到着。ウインフィルは聞けなかったけれど、小さな音楽会に行く事が出来て、何か一人前のクラッシック愛好者になれたのではないかなんて思ってしまった(但し社会党の阿部先生の迷惑そうな顔を思い出す。)
ウイーンからは湖水地帯をずっと突き抜けて最後はベルリンを目指す。途中モーツアルトが活動したザルツブルグにも寄ることができた。湖水地帯を行くと、説明はここが実際に「The sound of Music」のロケに使われた場所ですというので、皆バスを降りて一服することにした。丘の中途に小屋みたいな所があって、そこで景色を楽しみながらお喋りをしていた。その中で東中先生(共)がこういうことを言われた。(委員長配分)特別委員長配分は全部野党、残りも与党と野党で比例配分。これは大胆、東京に居る連中は眩暈を起こすと思った。同席していた阿部先生がそこに建設と農水が入るともっと説得力が出ると言われ、一緒にいた谷垣さんも特段反対をしなかったので、この案で我が党内部を説き伏せる事が一番大事な事になった。森・梶山二人の用心棒。
この旅は私にとって大変良い機会であったと思います。野党の人と仲良くなれた。ギリシャ、オーストリアと今まで縁のなかった地域を訪れる事のなかった地域を見分する事ができた。
そしてなによりも国会改革が一歩前進したこと等が高い評価となります。
また自分自身はモーツァルト全曲を聞くという自分勝手なプロジェクトを始めていたので、大変好都合だったのです。
旅はオリンピックの冬期会場になったことのあるインスブルックを経てベルリンに入った。ホテル横のガーデンテラスで町村さんが奥様とお茶をされていて、海外で友人にお目にかかる特別の味わいがあった。森班・与謝野班合流して東京に向かった。

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