経歴
2017年1月19日
私の歩んで来た道(最終編)
この「私の歩んで来た道」を年内に完成したいと思ったのであるが、病院通いが多く、とりあえずレジュメを残しておきたい。
- 掃海艇派遣は戦後の自衛隊に関する、ある迷信的な縛りを取り除いた、そしてそれに続く日本の国際貢献に大きく道を開いた。
その時の中曽根先生の私に対する言葉、「色々なことがあったがこの国会はすべて、掃海艇派遣につきるよ。」
中曽根先生は日本の国際貢献が大きく舵を切ったのをご存知であったと思う。
梶山さんはこう言われた。「海部さんという人は宇宙人だな、上を向いているのか、下を向いているのか判らない人よ。 - PKO法案を強行採決したことは前年の自民党(加藤紘一、山崎拓)逃げ回り作戦を繰り返させないためであり、当時の国対委員長、副委員長の勇気の無いことには、そして物事の重要性を判断できない、そして 挙げ句の果てには、独禁法を弄んだその体質にはあきれかえった。私は直ちに森政調会長にお願いして、国対委員長の更迭をお願いした。そして梶山さんが委員長にカムバック、私も副で呼びよせられた。小沢氏の政治改革で道を譲らず自民党の分裂となり、また選挙では200議席しかとれず、政権から降りた。そして細川政権が誕生。
我々は野に下った。やがて政権は羽田氏にバトンを譲ることになった。そしてこの政権から、村山社会党が離脱した。 - 誰も想像しなかった自社が連立をした。
- そして会期末出された、宮沢内閣不信任案は小沢グループの予想を超えた行動により、宮沢解散、敗北、細川政権という道をたどった。私は議席は維持できたが、閣僚は夢となった。
パーテイの席上このことを田辺哲夫氏から嘲り笑うように言われた時は、本当に暗い気持ちになった。でも自民はよく戦った。
細川氏は投げ出し、後任の羽田氏も社会党をむげにして退陣。
そして村山内閣が誕生した。夜中の村山さんの記者会見、私には後光が刺しているように思えた。私は文部大臣となり、オウム事件、関西の大地震、日教組の和解等々に取り組んだ。それ以降のことはよく知られているので、プロフィールを参照ください。
平沼入閣について
管総理には財政再建をやられるのであるならば、自民党の案も良い選択肢。
・二人で碁を打った。
・もう一度会いたいというので、お目にかかったら、平沼入閣を考えているという。
与謝野にはその返事はできない。
平沼に話をした。彼は私にその路線でいってくれという。
それは、ご自分で岡田さんあたりと下話をされたらよいと申し上げた。平沼は岡田さんに協力するのは、やぶさかでないと申し上げていた。平沼はそこまで言いながら、私のせいにしたいらしく、私はゴミを拾ったということ。(もう6回も入閣しているので大臣に興味なし。)
東京ではロールスロイス、地元に帰ると国産車私にはできない。
リーマン危機で感じたこと
- 口先ではだめで
- 有効需要をいかに確保するか。金融の流れをいかにスムースにするか。
この2点がリーマン対応である。